クギ作『キリング・ストーキング』によってかつて耽溺しその後否定してきた「痛愛」を再び見直そうとしている私です。
「痛愛」というのは今思い浮かんだ言葉です。その言葉ではちょっと足りない「激痛愛」というべきか歪んだ愛の形であり傍から見れば愛というより暴力というべきであり今ではドメスティックバイオレンス=DVとしか言えない関係の中のおかしな精神状態による依存心理で作られた狂った情愛です。
かつてキム・ギドク監督作品でその痛々しい愛の形に衝撃を受けたものの彼の新作には魅力を感じなくなり心が離れてしまったのが最も大きな原因ではあります。
その後女性の在り方について考えることが多々ありさらにその後起きたmetoo運動での様々な発言を聞きさらにはキム・ギドク監督自身の私生活での性暴力を聞くともうすでに遠い記憶となった暴力的な愛情表現は嫌悪でしかなくなってきました。
自分の中で確かにかつては惹かれていた感覚を封印してしまったのでした。
先日キム・ギドク監督の急逝が報じられ心は少しざわめきました。素晴らしい作品を作った映画監督が亡くなった、という報道に「彼を偉大な人と報じてはならない」という反感を訴える発言が多々あったからもあります。
もちろんこれはキム・ギドク監督の作品に対してではなく本人の非道な行いに対してのものです。
しかし彼の映画作品はあまりにも彼自身と結びついているとしか思えません。彼の行った性暴力と作品で表現された過激な表現は切り離して考えるのは困難でしょう。
やはり私はもうキム・ギドク監督作品を再鑑賞することはやめようとも思いましたし再度観て過去感じた衝撃が安っぽいものだったのか確かめようとも思いました。
そういう逡巡の時期に出会ったのが『キリング・ストーキング』でした。
しかも偶然なのかそれともだからこそなのか、作者クギ氏は韓国の人です。
不合理のように襲い掛かる暴力そして性暴行はかつて感じたキム・ギドク監督のようでした。
が、作者氏はたぶん女性で(違うかもですが)たぶん他人に暴力などふるってはいない方(違うかもですが)のはずです。
そうした人がこんなにも心を揺さぶる作品を描けるのです。
もちろん暴力と言ってもキム・ギドク監督とクギ氏の方向性は明確に違います。
なので最初に重なったのはリリアナ・カヴァーニ『愛の嵐』でした。クギ作『キリング・ストーキング』は『愛の嵐』にある女性的な性暴力です。
キャラクターにも重なるものがあります。
とはいえ『キリング・ストーキング』は「暴力による情愛」という感覚をもう一度考えてみさせてくれました。
長い間、観返すことのなかったキム・ギドク監督作品をもう一度観てみようと思います。
長い前置きでした。
その第一弾『悪い男』です。
タイトルも手伝ってキム・ギドク監督の代表作品と言っていいでしょう。
ギドク鑑賞の何番目に観たかはもう忘れてしまいましたが(別ブログの過去記事を観ればわかるはずですが省略します)鑑賞初期であるのは確かです。
ネタバレしますのでご注意を。
ヤクザの男が出会った女子大生に突然キスをした後つばを吐きかけられるのですが男はその女性が売春宿で働くように仕向けその様子を向かいの階上からあるいは彼女の仕事部屋のマジックミラー越しに見つめ続けていきます。
ヤクザ男はなぜかその女性とはセックスをしない(できない)のですが彼女を欲しているのです。
男を憎み嫌っていた女性ですがいつしか彼女は男と離れられなくなっていきます。
そして彼女は男と一緒に車で移動しながら売春を続けていく人生を選びます。
苦しくなりました。
これはキム・ギドク監督の女性への告白なのです。
美術を好みボーイフレンドと楽しそうに会話する美しい女子大生はキム・ギドクが思う「夢の女性」そのものなのです。
(確か映画『コレクター』も美大生の女性だったのではないでしょうか)
この映画はギドク氏が思う「女性」それも「理想の女性」と自分の関係をそのまま描いた「だけ」の映画です。
私は山岸凉子氏が描く「(理想の)男は若い美しい女性が好きで自分のことを好きになったりしない」という激しい劣等感の表現に時に呆れ時に打ちのめされてきましたがキム・ギドクもまた「(理想の)女性は絶対に俺を好きになったりしない」という激しい劣等感を持つのですが彼はさらにそんな(理想の)女性を徹底的に痛めつけることで振り向かせる、という行為を映画化したわけです。
可愛らしい女子大生に無理やりキスをし、売春宿に叩き込むまではできるかもしれませんがその後の展開は夢でしかありません。
あるいは彼女が憎しみをもって彼に要求する、というこの映画のような奇跡が起きることがあるかもしれません。
本作でキム・ギドクが示したその奇跡はあり得ないことではないかもしれません。
キム・ギドクはその代償に愛する女性を絶対に抱きしめることはできないのです。
ヤクザ男は声を失っています。(実は無理に話すことはできるのですが)
不思議な設定です。
もしかしたら彼は「王子様のそばに行くために声を失った人魚姫」なのでしょうか。
人魚姫は尾ひれの代わりに足をもらうため、歩くたびに足をナイフで切られるような痛みを受けなければならないという代償も負っています。
ヤクザ男もまた何度もガラスやナイフで刺され切られ続けます。
ヤクザ男の恋を描くために「人魚姫」をモチーフにするとはなんとロマンチックであることか。
しかも映画では『人魚姫』とは違い彼は幸福を手に入れます。
が、この幸福はきっと夢に違いありません。
彼はナイフで刺され死んだ後夢を見ているのです。
それはキム・ギドク監督自身の夢なのです。
キム・ギドクはずっと美しい愛に憧れながらどうしてもそれができなかったのです。
彼は人魚姫のように声を失っていたのです。
ナイフでいつも切り刻まれていたのです。
私はキム・ギドクという人がどんな人生を生活を送っていたかは知りませんが韓国映画界のアウトサイダーであるように感じていました。
彼はその中に入りたかったのではないのでしょうか。でもなぜか彼にはそれを言う言葉がなかったのではないでしょうか。
彼は本作のハンギのようにヤクザであり、彷徨うしかなかったのです。
彼は社会的に許されない存在なのです。
人魚姫は天国には行けたのでしょうか。