ガエル記

散策

『残酷な神が支配する』萩尾望都 その4 『ブッダ』

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さて進めます。

今回はついに私が本作で感じた最大の懸念「イアンの存在」を考えていきます。

 

 

残酷な神が支配する』と『ブッダ』のネタバレします。ご注意を。

 

 

 

 

いったいこの世界に「イアン」はいるのでしょうか?

若く類まれな美貌と恵まれた肉体と豊かな財産を与えられた白人男性らしく彼は傲慢です。優れた頭脳と運動能力、友人も多く女たらしでもあります。他からは恐れられる父親からも愛されひねくれた弟も彼のことは好きなようです。

そんなにも幸福で万能なイアンは生命の危機にもなるほどまでジェルミを救うために青春の貴重な時間を割きました。

 

虐待の被害者ジェルミのような存在は世界中に数えきれないほどいるでしょうがイアンの存在がどれほどいるのか、彼そのものとなればそれは限りなくゼロに近いのでは、と思わされます。

『バナナブレッドのプディング』の御茶屋峠の外見に似ている、とは思っていますがその内面と設定はまったく違います。

特に彼が並外れた財産家で何不自由ない贅沢な暮らしが保証されている設定は変に謎でした。

 

しかしイアンもまたこの物語のもう一人の主人公でもあります。彼もまたこの物語の中で変化し成長していきます。

何も怖くないかのように思える傲慢なイアンはジェルミとの出会いでジェルミを失ってしまうのではないかという恐怖を覚えてしまいます。

ジェルミを助けようとするイアンの行動はそもそもは「俺ならできる」という自信に満ちたものだったのが何度も何度も間違いを犯し何度も何度も挫折の絶望を味わいます。

その過程を読み追いかけていくことだけでも非常な困難と辛抱を必要とします。

暴行とレイプを受け続け肉体も精神も打ちのめされたジェルミはイアンから逃げ出し連れ戻され回復と悪化を何度も繰り返します。やっと悪夢から逃げ出せたかと思ってもまたもやグレッグ(『バナナブレッド』のレギュラーですな)が登場して彼を鞭打つのです。

そんなジェルミのそばにずっと寄り添い続けるイアンはついにジェルミの口から

「ぼくを生んで」

という不思議な願いをされることになりしばらくの時間を経た後に

「彼を生んだ 気がした」

という感覚を持つまでになります。

この究極の感覚を得る部分で思い出したのが手塚治虫の『ブッダ』でした。

私はシッダールタの話を別に読んだことはないのでここからはあくまでも手塚治虫著『ブッダ』からの話です。

愛情がない父母を信じられず冷酷に育ったアジャセ王は頭が膨れ上がるという病に苦しみます。それを知ったブッダは毎日12時間を3年の間アジャセ王の額に指を当てその苦しみを和らげるのです。ブッダの指先から彼の温もりが伝わりアジャセ王を安らかにしたのでした。

やがて腫れがひき回復したアジャセ王は微笑みます。その微笑みを見たブッダは「神は人の心の中に存在する」ことを悟るのです。

 

もしかしたら「イアン」は「ブッダ」なのでは。

ちょっととんでもない比較ですがイアンの信じられないジェルミへの救済の姿はそう言っても過言ではないように思えます。

ブッダは王の跡継ぎでありました。もちろん城の中で何不自由ない暮らしをしていたのです。

過剰なほどのイアンの裕福さはブッダの化身だからなのではないでしょうか。

彼は「イエス・キリスト」ではないのです。(裕福な生まれでもないし)

彼のように触れるだけで盲目を治した奇跡を表したのではないのです。

ブッダ』でアジャセ王だけに3年もの月日を捧げた、自らのオーラをアジャセに注ぎ込み病を癒したブッダの姿にこそ重なります。

イアンという名前は漢字で「慰安=心を慰める」ことからきているのではないかとさえ考えます。

 

ブッダの変わり身であるのならイアンがとてつもない裕福な家庭の御曹司であるのも理解できます。王子なのですから。

ジェルミへの信じ難い献身と救済も理解できるではありませんか。

 

イアンがキリストではなくブッダであるというのは奇妙に納得してしまいます。ジェルミの心の癒しは瞬間的に起きるものではなく長い年月を必要とするものだったのです。