ガエル記

散策

『天気の子』新海誠 その2

きっともう多くの人が言ったり書いたりしてることだとは思いますがやはり自分も思いを書きたくて書いてしまいます。

 

最期まで観てもう一度観返してもどうしてこんなに気持ちが悪いのかと思ってしまいます。

ホダカはヒナを「守りたい」的なことを言うけど言うだけで結局は何もしない。きっとこれからも言うだけで何もしない。

 

新海監督はなぜこんな口先だけの物語を作ったのでしょうか。

女の子は体を犠牲にして人柱にするけど自分の身代わりである主人公の男の子は涙を流すだけで何も失わない。結局家に戻って再び東京へ来る、という安定の人生。良いね都合よくて男は。

こんな身びいきの自分勝手な男を主人公にして何を訴えたかったのか。彼女の大丈夫になりたい、なんていうのはいくらでもできるけど本当にそんな言葉を信じられるでしょうか。だって言ってるそばからあなたは別の女のおっぱいを見ていたりするわけですが女の子はそれを咎めたりもしないという、ほんとうに自分にとって都合のいい展開をしていく作品です。

 

東京に家出してきてい仕事をくれる大人と出会っておっぱいを見せてくれる女性と出会っても拳銃を見つけて発砲しても何も君は失わない。五体満足。でも女の子は体を失ってしまうという話。ほんと日本の男って都合よく生きられていいね。

 

本当なら人を殺してしまったかもしれないし、女の子は本当に死んでしまったのかもしれないし、自分も普通には生きていられなくなってしまうかもしれないのにホダカは何も失わない。女の子にだけ無理をさせて泣いて見せるだけ。いいね。利口な男だね。

 

こんな映画を作って感動するって思う新海誠が認められている社会ってぞっとします。

若い女の体を犠牲にして感動させる。

ずっとそういう国だね、日本って。

ずっとそういう考え方だね日本の男って。

それに気づかず良いアニメ映画だとか思ってしまうのはどうかしてる。

 

この作品が当たり前に存在してしまうなんてあまりにも悲しい。