一度きりの大泉の話 :萩尾 望都 | 河出書房新社 https://t.co/agqDuNmciJ
— 一色登希彦 (@ishikitokihiko) 2021年4月27日
数日前に読了。今に至るも余韻が強い。竹宮惠子さんとの切り結びが、ここまで凄まじいものだったとは。
確かにこれは外野にできる唯一のことは、萩尾さんの「放っておいてほしい」という望みに従うこと以外に無い。
ただ、
また更に書くことになってしまいました。これもTwitterでフォーローしている一色登希彦氏のツイートを読んで「そうそう、そうなんだ」と自分の気持ちをまとめてもらえたように思えたからです。
一色氏が書かれている「これは私たち自身のこととして受け止める」という文章はとても大切なことでもう一度ここで書き留めたくなりました。
私自身非常に仲の良かった友人と棲み分けようと決意したことがあります。
それは萩尾さんが経験したは物凄い破壊的な事件ではなく幾つもの重なる小さなすれ違いなのでしたが一時期これがとても苦しく、これ以上交流を続けない方が気持ちが安らかになる、というはっきりした意思を持って分断したのでした。
ある時ある百貨店で家族と店内を回っていた時その人が近くにいるのを家族が見つけ私に告げました。
「久しぶり」と声をかけるだけで通り過ぎることもできたのですが私はあえてそちらを見ないようにして通り過ぎ家族は不審がっていましたがそれも無視しました。その人とのつながりを再び結ぶことはない方が良いと離れたのです。
多くの誰もがそうした経験を持っているのではないでしょうか。
これもまた一色氏が書かれているように萩尾さんも当時からの読者も年を取って多くの悲喜を経てわかってくれるのではないかと願いこの本をやっと書かれたのでしょう。
しかしそれだからこそ多くの人々もその経験をし別れの悲しみを知ったからこそ再び出会う奇跡を望む気持ちもあるのだとも言えます。
そういう私自身が奇跡的再会をあえて見過ごしたにもかかわらず心のどこかでまだ運命を見つけたい気持ちがあるのです。
だけどそれは無理やりできるものではありません。
(ここから作品のネタバレしますのでご注意を)
物語にも喧嘩、恨み嫉みなど何かの形で決別した友人が再び手をつなぐ再会を描いたものは多くあります。
それらは私たちに大きな喜びの感動を与えてくれます。
例えば樹村みのり『早春』の女性たちから。
しかし思えば萩尾望都『十年目の毬絵』で毬絵は死に残されたふたりの男たちも今後仲良く交際を再開するようには感じられません。
萩尾氏の作品で仲たがいした二人がよりを戻す話があったのかどうか。
例えば『バルバラ異界』で仲たがいした父息子は最後まで修復できず修復できたようにに思える息子は別の意識体として描かれます。
喧嘩しつつ仲良しならいいのですがいったん決別したふたりが仲直りする話はあったのでしょうか。
それは萩尾さんの両親の話とも重なってくるのでいっそう困難になりそうです。
記事内容が錯綜してしまいました。
こんなにも苦しいならもう会わないようにしよう、という考え方(私自身やりました)
もう一度会って再び関係性を修復するという考え方(もちろん多くの場合大なり小なりこれをやろうと努力する人生です)
人生の中で誰もがこうした選択を繰り返しているのです。