「一月万冊」でまた「れいわ新選組」の活動でまた安冨歩氏の著書で私はその考えに深く共鳴し感銘してきていたのですが氏のブログにこのような記事があるのを今まで知りませんでした。
ご本人のリツイートでこの記事を知らされました。リツイートされたのはキヨさんのツイートでした。
LGBTの問題については、安冨さんのこの話がすごく腑に落ちた。
— キヨ (@__kiyo__) 2021年5月28日
痛みや差別を内在化させてしまう問題は結構色んなところにもありそうだなーとも。https://t.co/vIWrdQ5TjW
すぐにブログを読みました。
今までいろいろな「LGBT」の人々の話を聞いていてその中のいくつかの話で考えてもどうしても納得できなかったのがするりと糸がほどけたようです。
私自身は安冨氏のようには自分の性的アイデンティティについて悩んだりしたことはほとんどありません。
少女期には「男のほうが良かったな」と思うことはあっても男性になりたいと真剣に願ったこともなかったのです。記憶の限りでは。
年を経てからは自分が女性であることに疑問や不満はないのですが日本社会における女性の意義への疑問や不満は高まるばかりでしたけど。
安冨教授は「LGBTなど存在しない」と断言しています。
この一言だけでは簡単に理解した、とは早合点すぎるかもしれません。
ただ私としてはこの「LGBT」という言葉が世に出てからそうした話に一種の距離を感じ始めてしまいました。
かつて同性愛の物語に強く共鳴していた私は「LGBT」という言葉ができてから突然遠ざかってしまったのです。それは「BL」という言葉が出てきてから読まなくなったのとも似ています。
ひとつの作品に対して「ああ、LGBTの話ね」あるいは「BLってやつね」などと言われてしまうと酷く気持ちの悪さを感じてしまうのです。その気持ち悪さの由来が何なのか、と思っていたのですが安冨氏のこの記事で納得できるように思えたのでした。
つまりLGBTなどは存在しない、ゲイもレスビアンもない、それはそれぞれの人のそれぞれの個性であり愛情であり性的欲望であるだけでレッテルを決めつけてしまう必要はないのです。
男女の恋愛と友情が様々であるように男同士女同士の恋愛と友情も様々です。
男同士の恋愛の作品を「BL」コーナーに置くこと、「この作品にはBL表現がありますのでご注意ください」女の子同士であれば「ユリ本」などという言葉を付記しなければならない現在の現象が「良いこと」なのかどうか「冗談半分で楽しんでいるんだからいいじゃないか」と笑えるのか私には気がふさぐことでしかありません。
そしてもっとも今まで私が理解できず考えあぐねてきた問題にずばりと答えてくれた安冨氏の言葉がこれです。
そして、性同一性障害などまったく存在しない。
詳しくは安冨氏のブログ記事を読んでいただくのが一番ですがまずはこの言葉自体が誤訳だというのです。「性同一性障害」は英語でGender Identity Disorder ですが日本語訳としておかしい、と氏は述べます。
私は英語がさっぱりわからないのですが、とはいえ自分でも翻訳してみるべきでした。そうすれば自分でも「おかしいな」と思っているものを少しでも感じ取れたかもしれません。
たしかに私はこの「性同一性障害」という言葉が理解できなくて覚えられずにいたのでした。
安冨氏は細かく翻訳してみて
Gender Identity Disorder は「性自認の混乱」とでも訳すのが適当であろう。
とされています。これならわかります。
そして「障害」という考え方をせずにいいのです。
これまで見聞きしてきたことですがいわゆる「性同一性障害」に悩み性転換手術を受けた人も多くいます。
安冨氏も書かれていますがここで「性転換手術」と言ってもとの形をそれなりに変形させるだけであってほんとうに性が転換してしまうわけではありません。
そして後悔してもさらにもとに戻すことは不可能でしょう。
加えてホルモン治療の副作用などを知ると「それはほんとうに良いことなのか」と考えてしまいます。
さらに「私は体は男だけど心は女なのです」という説明も不思議なのです。
私は女ですが「心が女」と感じたことがありません。
そして「心が女」と言われる人は男性を好きになり長く髪を伸ばしスカートをはき花や甘いお菓子が好きでこまめに気が付く、というような「女のステレオタイプ」になるのです。そのステレオタイプがいかにも「男性が求める女性のタイプ」なのです。
しかし私は女ですが数十年スカートをはいておらず(たんにパンツが活動しやすいからなのですが)甘い菓子が苦手で短髪で花は好きですがこまめに気が付きません。
それでいて自分をまったく男性的とは思っていないのです。私は女性です。そして男性と間違われたことはまったくないし女性としてしか扱われていません。
もちろん「性同一性障害」の人でもそんな「ステレオタイプ女性」を目指す人ばかりではないでしょう。
とはいえ私そっくりの女性の心を持っていれば「短髪でズボンしかはかない女」を目指すことになります。「女性言葉」も話しません。フェミニンなブラウスもパンプスもはかずネイルもしません。ピンクよりブルーが好きでしぐさもなよなよできません。
しかしそれだと「性同一性障害」だとは言われなさそうです。
これはいったいどういうことなのでしょうか?
と長い間考えていました。つまり答えはこれしかないのです。
性同一性障害などまったく存在しない。
それでいいのではないでしょうか。
身体が男性でも髪を長くしてふわりとしたスカートをはきたければはけばいいのです。
身体が女性でも髪を短くしてズボンしかはかずスニーカーしかはかないのもいいではないですか。
誰もが自分がそうありたいと望む姿になればよいのです。
(極端に自傷的なものでなければ、という但し書きはつけることになりますが)
安冨歩氏がいう
存在するのは、差別という暴力である。
という言葉がすべてだと思います。
差別という暴力がないのならば「性同一性障害」はなくなるのでしょう。
それは障害ではないのです。
安冨氏でも感じたという差別的視線に悩まなければ無理に自分の身体を変えなくてもいいのではないでしょうか。
それはストレートにもある劣等感からの美容整形と変わりはない、と思っています。
どうしても変えるのならそれを決めるのは医師ではなく本人だ、と安富氏は書いていますし、その通りなのですが私は「変えなくて良いはず」と思います。
機能不全のための整形は必要かもしれませんが「美容整形」は詐欺ではないかとも思います。
自分の体と心を愛し慈しみましょう。
慌ててメスを入れなくてもゆっくりと愛していくことで「良い」ものへと変わっていくかもしれません。
それはおしゃれや化粧というだけではなく本質の自分を好きになっていくことからでしか生じないようにも思えます。
私も若い頃は自分があまりにも「不細工」と思ってそれなりに苦悩しましたが年を取るとかえって平気になってきました。
しわもありますがそれもまた良いではないでしょうか。
相変わらず短髪でズボンしかはかずステレオ女性ではないのですが自分は自分です。
「私は性が違う」ということはないのです。
自分自身が「自分の性」なのです。
「LGBT」という言葉で表せる人などいないのです。
自分が好きになる人が好きな人なのですしトランスジェンダーをどれほど細分化して示そうとしても人の数だけ違うのではないでしょうか。
最近のメディアの「LGBTのかたがた」などという呼び方にげんなりしていたのは当然でした。
とはいっても社会にはいろいろな現象が起きて変化していくものです。これからも私たちはいろいろなことを知りよく考えて変化していくのです。