ガエル記

散策

『ブリムストーン』マルティン・コールホーベン

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アマゾンプライムにて鑑賞しました。なんとプライム無料今日いっぱいなのでお早めに。

 

アメリカ西部劇で観てきた時代に女性たちはどのような存在だったのかを描いています。

とはいえ本作は昔話をしているのではなく男性社会で女性がどのような暴力にさらされてきたのか今でも苦しんでいるその姿と重ねて描写しているのは明らかです。

 

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

 

その暴力性は主人公女性の父親である牧師によって象徴され具現化されています。

彼は女性を自分に従順に従う奴婢と位置付けています。聖書の教えを都合よく解釈し自分の行動を正当化していくのですがこうした価値基準が常に暴力性と共存するのは往々にして見られることです。

 

暴力的男性のシンボルである牧師は妻に絶対的な従属を求め重労働と性行為を強制しています。しかも実の娘である主人公にもそうした従属を求めるのは教義的に間違ってはいない、と主張するのです。

反抗し口答えした妻には口枷を装着させた姿を人前にもさらします。

こうした行為を誰も非難しないのも不思議でしたがこれも往々にあることです。

 

 

アメリカ映画で(監督はオランダ人とのことですが)こうした暴力性が牧師や神父、敬虔なキリスト教信者を配して表現されるのはそうした大きなストレスと暴力は強く関係しているからなのでしょう。

 

S・キング『キャリー』の母親、スタージョン『人間以上』のアリシアの父親などが私に強烈な印象を残しています。

そして本作の父親である牧師がその名簿に刻まれました。

 

本作の主人公リズは牧師である父から性行為を強制されて逃げ出したものの買春宿で働く羽目になりそこでも女性の無力さを知らされます。

女性たちは男性の暴力に抗う力がないのです。

そんな世界でもリズは自分ができ得る限りの能力を使って逃げ延び戦っていきました。

リズにも娘が生まれ今度はその娘を守るために全力を尽くします。

しかし運命は彼女に過酷でした。

 

仏教徒なら「因果応報」というべき描写が本作には何度もありますがキリスト教作品なので単純に罪と罰というべきなのでしょうか。

 

リズの少女時代に放浪してきたアウトローがいますが彼が天使のように見える場面があるのに彼は簡単に牧師に殺されてしまいます。

本作の製作者はまったく神を信じていない、と思えます。

そしてリズは戦い抜いた後にそれでも死を選ばねばなりませんでした。

これも「神は存在しない」という作り手の意志なのでしょう。

 

さて、これを昨日書いた「ゼロサム・ノンゼロサム」思考をしてみたらどうなるのでしょうか。

本作は確固たる「ゼロサム」思考で出来上がっています。男性社会そして暴力は「ゼロサム」思考なのですから当然です。

そして作り手は「ノンゼロサム」思考をまったく拒否しています。

 

本作の徹底的な悪は牧師が担っていますが牧師のこの異常な行動と思想もまた彼が受けたであろう暴力から生まれたに違いありません。

本作の評価に「何とも言えない絶望感」があるのは牧師の暴力の原因がまったく無視されているからです。

無論作り手は絶対的にある男性暴力性を悪の権化として成立させたいのですから原因を描写することは女性の苦悩を矮小化する、と考えたのかもしれませんが私は逆だと思います。

 

フィクションは様々な形が考えられます。

本作は虐げられてきた女性の歴史をそのままに表現した、のですが私はそれだけではフィクションである映画作品としてはやはり物足りないのです。

それだけでは「虐げられる女性を観るのが好き」な観客のための映画とも考えられそうです。

例えば牧師の魂を救うことはできなかったのか。

リズが幸福になってはいけなかったのか。

どんな人間にも罰が与えられてしまう本作には疑問が残ります。

 

 

余談ですがちょうどテレビ放送されたらしい『おおかみこどもの雨と雪』にも同じような疑問と反感を感じています。