ガエル記

散策

『ゼム』7話から10話最終まで鑑賞

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とにかく最初から最後まで文字通り恐ろしいほど辛い物語が続きます。

ちらりとも助かるのではないか、どうにかなれるのではないかという気がしません。

黒人差別は特に過激なもの、と日本人が思うのは傲慢です。我が国の国民がいかに非情で惨たらしいことをしてきたかの過去と現在の事実を無視して観るわけにはいきません。だからこそ本作を観るのは誰にとっても過酷なのでしょう。

虐げられてきた人々も加虐してきた人々も直視できないのです。

 

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

ですから、本作は他のどのホラー作品よりも怖いのです。

ここに描かれたのは空想のお化けモンスター・ゴーストではなく現実なのです。

一部レビューの方で「現実的な差別問題かと思ったら幽霊が出てきてがっかりした」と思っている方がおられるようですが、幽霊ではなく本人の心を具現化するという映像的手法です。

(いやそんなこと思っているのはごく一部だと思いますが気になってしまって)

そうした何よりも恐ろしい、だのにたぶん世界中にあるだろう「人種差別」という人間の心を悪鬼に変えてしまう心理が題材になっているのです。

最近はゾンビであれば人間の形をしていても残酷にぶち殺してよい、というルールで殺戮を面白がるのがブームですが本作は「ただ単に色素が濃い」というだけの違いしかない普通の人間を殺しても許された時代に生きた黒人一家の恐怖を描いたものです。

なぜか差別主義者は「自分たちの種族は特別に美しく、差別される奴らは劣っている」という同じ主張をするのが常です。

しかしその相手が自分たちより優れているのではないか、という恐れもあってそれを打ち消すために様々な思考のつじつま合わせをしていきます。

本作であればヘンリーに対して隣人の白人男たちは侮蔑の言葉を吐きながらも一対一で取っ組み合えば負けてしまうだろうという肉体劣等感を覚えそれを否定したくて「奴らは獣なみに力があるからな」と嘯くわけです。

もちろんこの考え方自体が差別意識による偏見なのです。

 

日本で起きている人種差別もまた不気味なものです。こちらは色素の濃さの違いは無い上にほとんどどの要素も変わらないとしか思えないのに奇妙な差異を見つけて優劣をつけようとします。それでも外見ではわかりにくいのでしゃべらせて発音の違いで暴行を加えるしかないので地方の方言をそれと間違えて暴行を加えてしまったという悲劇までありますがそうした差別意識自体がおぞましいとしか思えません。

実際地方民への差別意識でのいじめもまたあるわけで。地方は地方でそのまた小さな区分で差別します。

小さな田舎で「あいつは隣村の生まれだから劣っている」とか。

 

あまりにも馬鹿々々しい、としか言えないのですが人間はそういう差別意識でなんとか自己肯定をしていく生き物なのでしかないのです。

 

それを表すために本作は証言していきます。

黒人一家迫害の先頭に立つ白人女性ベティは一見申し分ないプライドの高さに見えますが実際は「子供がいない」「子供ができない」コンプレックスを持っているようです。

その原因は(たぶん)夫が同性愛者であることなのですがこの時代にはそれすら口にできないのです。それはこの時代のドラマにありがちな表現でした。

且つ一見裕福のようでいて実際はそれほど余裕はないのに見栄を張っているだけなのです。仕方なく彼女は両親に金を工面してくれるよう頼みに行きますが豪邸に住む両親の態度が奇妙で会話もちぐはぐです。

母親は娘に冷淡で父親は逆に娘に金を出すから泊まっていくようにと言い出します。

風呂の用意をする父の姿を見て怯え逃げ出すベティの過去は父から性的虐待を受けてきたことが考えられます。しかしこれもはっきりと言えない時代だった、とドラマは描きます。

その後ベティは偏執的な白人男性に突然監禁されてしまいます。もともと彼女はなにかにつけ牛乳配達の彼を家に引き入れ親密に話をしてきた、という仲だったのですがそうしたことはスキャンダルでしかない時代であった、と本作は語ります。

申し分ない白人女性に見えるベティと夫を通じて白人たちの抑圧された劣等感が暴かれていきます。

 

口汚く罵り暴力性を露わにする隣人マーティは白人男性の戯画化です。

常に苛立ちすぐに暴力をふるい銃を撃とうとします。

 

本作を観ているとこの世界で最も恐ろしいのは「普通の人間」なのだと思わされます。どんな鬼もモンスターも「普通の人間」より恐ろしいものはいないのではないでしょうか。

それが集団となった時、その恐怖は燃え上がります。

小さな家の中で黒人一家は決心を唱えます。

「もう逃げない」

と。

果たして彼らは生きのびていけるのでしょうか。

私にはとてもできるとは思えません。

 

本作は途中で過去に戻る構成になっています。

ここを「必要あるか?」と嫌う人もかなりいるようですがとてつもなく必要でしょう。

 

黒人一家の恐怖はこの物語の一時期だけではなくアメリカに移民入植がはじまり黒人が奴隷として輸入された1600年初期から奴隷制が廃止された1800年半ばを経ても黒人差別はそのまま続き1900年半ばの公民権運動を経てもなお差別はなくならず現在に至ると言っても過言ではないでしょう。

しかもその背後には「聖書に黒人迫害は正しいと書かれている」という歪められた信念が強固にあるのです。そう信じていたからこそキリスト教徒の国アメリカで黒人差別が続けられたのです。

実に400年黒人一家の白人への恐怖、言い換えれば白人の黒人への暴力は続いているのです。350年後「もう逃げない」と決心した黒人一家はさらに50年後現在、逃げずに生きていますか。

 

悲しいことにそうは思えません。

 

この恐怖のなかで生きていくことはできるのでしょうか。

私にはとてもそう思えないのです。

 

本作ドラマは「恐怖とはなにか」の本質を描いたものであるでしょう。

それは隣人なのです。普通の人間です。

さらに彼らはマジョリティであり法律に守られています。

そうなれば主人公たち一家は何もなすすべはないのです。

 

 

以前『ノーカントリー』という映画が絶賛されました。

私も面白く観ました。

これは白人たちが隣人に対する恐怖を描いたものです。

その恐怖は計り知れない、これほどの暴力をよくぞ描いたという高い評価でした。

しかし実際の恐怖を与えるのは常に白人たちなのです。その常に優位であるはずの白人たちを恐怖に陥れたという創作劇であるために『ノーカントリー』は名作といわれたのでしょう。

 

翻って本作は現実です。ただ単に現実であるがゆえの恐怖です。

 

尚且つ本作はドラマとしても秀逸でした。映像も美しく音楽も素晴らしかった。

こんな内容のドラマを作ることができるようになったことにも驚きを感じます。