マル激トーク・オン・ディマンド 第1060回(2021年7月31日) 「罪」と「責任」の違いと韓国ドラマのすごさ
ネタバレ全開の映画評論が面白く凄いのですが今回の宮台真司氏の解説は特に感激してしまったのでここに記録しておきたいと思います。
まずは是非YouTubeを観てください。
『竜とそばかすの姫』も気になりますがここでは『アウシュヴィッツ・レポート』の解説をとりあげます。
毎年のように製作され上映され続けるナチスとアウシュビッツ映画に正直「やりすぎ」を感じていたのですがそれこそが考え方の違いだったのだと知らされました。
ナチスとアウシュビッツを描いた作品はユダヤ人からのものだけでなくドイツ人が作ったものもまた作り続けられているのが日本人には不可思議なのではないでしょうか。
予告編だけでも目を背けたい怖ろしさを感じます。自らの過去が起こしたこれほどの残酷の記録とそれから逃れようとする人々の悲劇と勇気を描いた映画を製作協力するドイツ人とそうした映画をほとんど作らず作らせずに至った日本人との思考の差はどのようなものなのでしょうか。
それを宮台氏は「日本人の劣等性」と言い放ちます。
事実、自らだけでなくユダヤ人からも常に「ナチスの狂気・異常性を訴える作品」を作り続けられてきました。
ドイツ人はそれに対し自らの歴史を反省するだけでなく忘れないために記録し続けてきたのです。
無論「ネオナチ」といった反動現象も起き続けているのですが日本においては先に反動現象のみが存在しているように思えてなりません。
日本軍が過去に起こした重罪に対し近隣国から声が上がると日本国は常に「謝罪は行った。責任は果たした」と言うばかりです。
そうした現状をどう考えればいいのか私には自分の考えをまとめきれずにいたのですがこの動画で宮台氏の説明を聞いてやっとその糸口が見つかったような気がします。
今まで考えたこともなかったのですが日本語の「責任」は英語でresponsibility
レスポンシビリティなのです。
ここからは私でもわかるのですが責任=responsibility の中にすでに「レスポンス」
答える、と言う言葉が存在するのですね。
ツイッターで「レス」という言葉を当たり前に使うようになっている昨今なのにまったく考えたこともなく調べようともしませんでした。
ところが日本人特に政府は事情を問われても「お答えすることはできない」という責任逃れをするのが常套になって国民をそれを認めてしまいます。
日本ではよく「説明責任」と言う言葉を使いますがそもそも「責任」と言う言葉の中にすでに「説明する」と言う意味が入っていたのですね。
この動画でも「レスポンシビリティ」を「責任」と訳したのがまずかった、と言っています。しかし日本人の思考がそこに行かないこと自体が間違っているのかもしれません。
宮台氏はここで「小山田問題」について触れます。
彼が言った別のメディアで語った内容は知らないので何も言えませんがこの「小山田問題」は今日本人社会で大きな波紋を広げています。
少年期に行ったという障碍者・外国人への激しい暴力ともいえるいじめ、そして成年してからそのいじめを自慢したインタビューを雑誌に掲載したこと、さらにその後何度となくそれらを反省謝罪せよという呼びかけがあったにもかかわらず無視して現在に至ったところでオリンピックスタッフ参加という大きな出来事を受けてついに謝罪せざるを得なくなったという事件は幾重にも考えさせられます。
いじめの場面では「助けて」というコールに彼は答えず、つまりレスポンスせず、いじめ自慢はおかしいという追求にもレスポンスしなかったのです。
この事件と日本がかつて戦争で起こした残虐行為と反省追及への対応はそのまま連動しているように思えてなりません。
激しい虐めがあり、反省追及を無視してきたのです。
これとドイツ国民が過去の歴史「ナチスの罪」に対して常に毎年反省と謝罪を繰り返す行為とはあまりにもかけ離れています。
さらに動画のふたりは「良きサマリア人のたとえ」に言及します。
あるユダヤ人が強盗に襲われ半死の状態になっているところへ同じくユダヤ人の祭司そしてユダヤ人の仲間が通りすがりますがふたりは見て見ぬふりで去っていきます。しかしその後ユダヤ人とは嫌う関係である旅のサマリア人が通りかかったのです。
彼はそのユダヤ人を見捨てておけず傷の手当てをしたうえ、宿に運び金を払って看護を頼んだのでした。
この話は今の法律にも関係してきます。
現在、アメリカ合衆国などで導入されている善きサマリア人の法 (good Samaritan law)とは、「窮地の人を救うために善意の行動をとった場合、救助の結果につき重過失がなければ責任を問われない」といった趣旨の法である。(ウィキペディアより)
ここでも日本人は見て見ぬふりをした方が得策だという法律に基づいているのです。
これは本当に得策なのでしょうか。
『アウシュヴィッツ・レポート』はこうしたコールとレスポンシビリティを描いた映画なのでしょう。
仲間からの呼びかけ「この窮状を伝えてくれ」というコールに応えるふたりの脱走者。
脱走者の「アウシュヴィッツの人々を救ってくれ」というコールに世界は答えたのか、その答えはすでに私たちは知ってはいます。
(実際アメリカ軍は捕らえられていたユダヤ人よりも周囲のドイツ人を心配した、という話も聞いたことがあります。つまりユダヤ人より周囲のキリスト教徒が大切だったのですがそれでも彼らは救ったのです)
苦しむ人・困っている人からコール(呼びかけ)があった時、それに対するレスポンシビリティ(責任)がある。
さて日本人はこの命題を理解し行動できるようになる日がくるのでしょうか。
宮台氏がいう「日本人の劣等性」は改善されるのでしょうか。
この命題はさまざまなところで問われているように思えます。
例えば女性が子どもたちが救いを求めている時、答えをはぐらかしてはいないのでしょうか。