ガエル記

散策

『フィールド・オブ・ドリームス』フィル・アルデン・ロビンソン その1

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フィールド・オブ・ドリームス』がNHKBSプレミアムで8月30日放送されるのですが急に観たくなってアマプラで先に観てみました。

 

とはいえ私は昔観てはいるし特段本作に思い入れがあるわけでもありません。例によって『SonnyBoy』につながりがあるような感覚で再鑑賞したくなったのです。

久しぶりに観た本作は思った以上に奇天烈な上、急展開で話が進むかなりヘンテコな映画作品だったので「これがあれほど人気だったのか」と言うべきなのか人気が出る映画と言うのは奇天烈でヘンテコなものなのだ、と納得すべきなのか迷います。

 

他の方のレビューでも「夢がある。ほっこりする」から「馬鹿々々しい。むかつく」と幅広く感じ取られています。まさしくその両方を兼ね備えた映画だと言えるのです。

私自身は昔はなにも評価していなかったのでしょう(その後観返したりしてないのでわかります)が、今観るとヘンテコ映画ながらそのあちこちに強く興味を惹かれました。

書きたいことがかなり膨大にあるのですが少しずつ書いてみようかと思います。

 

以下ネタバレしますのでご注意を。

 

 

 

再鑑賞の本作で驚いたのはその進行の早さでした。本格的な映画の見どころというのはものごとをじっくりと描いていくところにあります。本作でいえば主人公がお告げを受けても自分でも迷い周囲に反対をされそれでもこつこつと自分の夢を築いていく、という展開になるものでそこでも破壊されたり阻止されたりを繰り返す、となるのを本作ではあっさり妻の賛同を受け家族で野球場を作りあげてしまうまでがあっという間です。本作を低評価する向きはこの適当さへのものではないかと思われますがこの作品が一種の寓話、昔話みたいなものとして考えれば納得できます。

「昔々、あるトウモロコシ畑で男が不思議な声を聞いたそうな」

というやつです。

しかもこの声というのは私的には最近学んだ「コーリング」ではないか、とビビったのでした。

 

主人公は「天の声」を聞きます。

'If you build it, he will come.'

(ソレを作れば彼は来るだろう)

 

男が女房に相談してみると「それは良い話じゃ」というので男の女房と娘はえっちら「野球場」を作りましたとさ。

 

ここで主人公は冒頭でちらりと説明した父親の話を妻にします。

冒頭での説明で彼の父親は妻を早く亡くし男で一人で息子を育てた、と語られます。

主人公が幼い頃は父が好きだった野球の試合を観たり別のチームの応援で戦ったりという思い出があるものの彼が大学に行く頃はできるだけ遠い場所を選んでしまうようになったわけです。

主人公にとっての父親は夢を無くしすでに年老いていた姿だけでした。その父親は主人公が結婚した年に死去したのです。

主人公は妻に打ち明けます。

「僕はあんな父親のように夢を失って生きたくないんだ」

ここであっさり妻が主人公に賛同し手伝うのは60年代の思想の同志であるとともに本作でのテーマが夫婦の対決ではないからです。

 

では本作のテーマ、とは何でしょうか。この映画が語りたかったこととはなんでしょうか。

それはなんと上の日本版ポスターにすでにくっきりとプリントされてしまっています。

 

「失ったものたちは帰ってくるー若き日の父に姿を変えて」

 

いや、オチをはっきりポスターにするってどういうことなのでしょうか。

それをここで書きたかったのですが先にポスターにされてしまってはどうしようもありません。

 

気を取り直して書きますが主人公が聞いた「天の声」それは映画でも語られてはいましたが主人公自身の声なのです。

自分はなにか大切なものを失ってしまった。それはいったいなんなのだろう。

主人公はローンも抱え裕福とは言えないけど、しっかり者の妻と可愛い娘に恵まれ強い愛情を感じています。その妻と娘が我が家のデッキで笑いくつろぐ幸せの中で主人公は突然その声を聞くのです。

それは確かに誰かが言ったわけではなく自分自身の声だったはずです。

しかし主人公はそれを「神のお告げ」のように感じたのではないでしょうか。

そして主人公は「なぜか」トウモロコシ畑の中に野球場を幻視し「野球場を作らねばならない」と思いつくのです。

 

まるでお伽話のようにあっという間に野球場ができますがなんとそこに伝説の野球選手シューレス・ジョーが現れたのでした。

ジョー・ジャクソンはすでに死去した人物です。彼は主人公が作ったその野球場の中だけに蘇り愛した野球を楽しむのでした。やがてジョーは仲間を次々と連れて現れついに試合を始めます。

そしてまだ生存している人物ではあるけどかつてプロ野球選手を目指したものの医者となった老人も若き姿となって参加するのでした。

(このムーンライト・グラハムの老医者になった姿をバート・ランカスターが演じてさすがの風格です)

「また明日」と言ってトウモロコシ畑の中に姿を消す選手たちの最後に残った若者は主人公の若き父だったのです。

そうです。主人公はこの「若い父」に会うために自分の声をお告げと聞き仕事を放り出して球場建設に没頭したのでした。

'If you build it, he will come.'

の「彼」はシューレス・ジョーではなく「父親」だったのです。だからこそこの声はお告げではなく自分自身の声なのです。

 

この「父と子の物語」を日本では「ほっこり」もしくは「うざい」と評してしまうものに思えますが西洋もしくはキリスト教圏ではそれだけではない重要な題材としてとらえているのではないかと思っています。

'If you build it, he will come.'

は「お告げ」ではなく自分自身の声と書きましたがやはり同時に「神の声」でもあるのです。

主人公は大切なものを見失っていた。

それは父親と父親から受け継いでいかねばならない記憶なのです。

ここではそれを「野球」というギミックで表現しています。それはアメリカが最も成長していた時期に同じく華やいだものなので表現として多くの人にぴたりとあてはまったのではないでしょうか。奇しくも日本においてもその仕掛けが有効だったので本作は日本で爆発的な人気作となりました。

なのでこの「野球」という仕掛けを別のものに変えてしまえばそれぞれの『フィールド・オブ・ドリームス』ができるはずです。つまり「釣り」でも「将棋」でも「ダンス」でも「ケーキ作り」でもいいのです。

しかしその場合は「野球」ほどの人気作にはなり得なかったでしょう。

ただ重要なテーマはその先にあります。最後には主人公が本当に会いたかった人物がいる、ということです。

西洋・キリスト教圏の物語ではその人物が父母もしくはそれに価する人物となる場合が多いように思えますが日本ではあまり当てはまらないのではないでしょうか。

日本ではこの映画を「お父さんを大切に」的な孝行話としてほっこりしたのかもしれませんが本作での主人公と父親の関係はむしろ「遺伝子をつなぐ大切さ」を描いたのではないかと思えます。

「偉大なる野球」の話なのではなく「歴史を語る」物語なのです。

 

主人公は映画の冒頭で父親から逃げるように去って行っています。主人公にとって父親は「すでに老人のような見すぼらしい存在」であり彼はそれから逃げたかったのです。

そしてお告げの後「夢を失った父親の様になりたくないから球場を作りたいんだ」と妻に打ち明けます。主人公は父親を嫌い退けようとしているのです。

ところが夢の野球場の中にはその父親がいた、のでした。

かつて野球の面白さを教えてくれた父親からいつしか主人公は離れてしまったのですがそれは成長の証でもあるのですから当然です。

しかし主人公の心の奥底に父の思い出があったのでした。

映画はそうした大切なものを失ったであろう人々にそれを教えようとし、それを学ぼうとする人の群れが見える場面で終わります。

歴史がない、と言われる若い国アメリカで歴史を語り継ぐことはこうも大切なことなのか、とも言えるように思えます。