第一章の終わり的な#6を経て更に本格的な謎の域に入ってきました。ここまで徹底したオリジナルTVアニメは滅多にないのではないでしょうか。
デヴィッド・リンチを思わせる謎解きで作品ができていると思うのですが特に今回は謎だらけで積み上げたという内容でした。
ネタバレしますのでご注意を。
謎、比喩、暗喩、語呂合わせ、リスペクト、オマージュ、真似、パロディ、暗示、予感、予測、イメージ、たぶん監督が持つあらゆる記憶や感覚を集めて構築していくこのアニメ作品はまさに今回の題材・バベルの塔をアリたちが作り上げていくかの如くなのではないでしょうか。
幾つかの言葉やイメージは私にも理解できるものでありますし、まったくわからないものも幾つもあります。
まずはバベルの塔を作り上げ天国へ行ける、ということは「あり得ない」ものでありそれをやっている二つ星自身もわかっているわけです。
そしてバベルの塔を作ること自体そもそも神の怒りにふれ破壊されてしまうのが予感されます。
ではなぜ本作で「バベルの塔を築く」という題材が取り上げられたのでしょうか。
幾つかの要因が考えられます。
旧約聖書では天まで届く「バベルの塔」を築いていた時人間たちは同じ言葉を話していたのですが神の怒りに触れて別の言語を話すようになったため彼らは散り散りに分かれて暮らすことになった、とされます。
今回生徒たちは言語は変わらなくても別の考え方を持った者同士で分かれて行動することになります。
そのイメージを表現するために「バベルの塔建築によって人々が分かれた」と表したのです。
ではなぜ旧約聖書からの引用なのか。
これは何度か書いていることですが夏目監督はかなり『エヴァンゲリオン』を意識しているのではないかと思うのです。
主人公たちが中学生であること、主人公長良のキャラが碇シンジ的に内証的であること。髪の長い少女と短い少女がヒロインとして寄り添っていること、などが相似点です。
『エヴァンゲリオン』は思春期の少年の内証(ないしょう)つまり心の悟りを表現したものだと私は考えていますがたぶん夏目監督も同じように考えられているのではないでようか。
そしてその表現に対して「自分ならこう表現する」という提示をされているように思えています。
『エヴァンゲリオン』はキリスト教からピックアップしたイメージ・言葉が多い作品です。エヴァと言うタイトルからしてそうです。
が、私はその使い方と意味にあまり意義を感じません。
夏目監督がそれらにどう思われているかはわかりませんが自分なら「バベルの塔」を使いたい、とされたのではないでしょうか。
次に今回出てきた言葉「ビートニク」です。
バベルの塔と「ビートニク」の関連性はわかりませんが「ビートニク」はもちろんバロウズ、ケルアックやギンズバーグを中心とした自由な思想の一派を表しているはずです。
後に登場するヒッピー文化は日本でも有名ですがなぜかビートニクはあまり日本では流行らなかったようです。
さすがに時代が違うので私の年代でもわかりませんが。
もっとも有名なのはジャンキーなバロウズの『裸のランチ』そしてケルアックの『路上』(オン・ザ・ロード)でしょうか。
私が読んだのもこの二つくらいです。
そして今回のタイトル「ロード・ブック」もケルアックの『オン・ザ・ロード』から取られていると思われます。
「バベルの塔」によって人々は分かれ、そして「オン・ザ・ロード」していくわけです。
朝風は不安定な長良たちに「俺と一緒に来いよ」と声をかけますが長良はもう迷うことなく「自分の道を進みたいんだ」と答えるのです。
「いいねそれ」と明るく賛同した瑞穂と異なり希は「わたしは・・・どうしようかな」と答えを濁して今回が終わります。
頭脳明晰で頼りがいのある存在だったラジダニが一人だけで思索の航海に出ていきます。
後に合流するだろう期待はありますが長良は本格的に自分で考えなければならなくなりました。
新しい水先案内人・やまびこがその代わりではありますが。
そしてこれまで気弱な長良を叱咤してくれていた希が自分の死を見て以来内向きになってしまったのも気になります。
コウモリ先輩のエピソード。
長良は自分はおとなしくて誰とも争わない、と思い込んでいるけれどこういう風に「あのひとはコウモリって呼ばれているんだ」と発言していつの間にか人を傷つけている、ことがあるという話。
彼はそれからコウモリ男になってしまったわけです。
知らないうちに長良は他人の人生を狂わせてしまった。それは許しがたい罪でありながら長良はそれに気づいてもいなかった、ということになります。
このエピソードは今の子どもたちが逆上がりもできない、という現象から作られた気がします。
しかしコウモリさんが良い人でよかった。
二つ星はこのアニメの今まででもっとも胸が痛くなるキャラでした。
『SonnyBoy』は『漂流教室』を元ネタにしたといわれながらあの壮絶さはないと思われてしまいそうですが今回の話は本当に残酷で最悪のディストピアと言えるのではないですか。
200年、あるいは1000年もっと長い間石運びを続けなければならない、その目的も成果も何もわからないままに。
一方生徒たちはそれぞれに自分の道を歩き出します。
そして猿毛玉・・・なに?
今回にきてこの独特の美術監督は誰?と検索しました。
いやずっと思ってはいたのですが。
藤野真理さん。
これからはもっと美術にも注目していこうと思います。(今頃それか)