これまででも特に哀切な話でした。すぐに意味が汲み取れるわけではない寓話だと思いながらも途中で「これは昨日私が悲しんでいた話と同じではないか」と感じてしまったのでした。
ネタバレしますのでご注意を。
昨日私が悲しんでいた話とは
「現在日本のアニメはあまりにもバトル=戦争に偏りすぎている。少年だけでなく少女にも戦争の兵士として戦わせることを面白がっている。戦争というのが一種の寓意だとしてもその表現は作者が思いのままにできるはずなのに」
ということです。
『SonnyBoy』のエピソードはこれまでも現実の少年少女の苦悩をイメージしてきました。
ひきこもり、対立を避け逃げること、学校(社会)の中のヒエラルキー、いじめ、絶望、などなどです。
今回の物語は作者である夏目真悟氏自身の苦悩を描いたものなのではないかと思いました。
日本ではマンガ・アニメが他国よりも隆盛であるのは確かでしょう。しかしその内容が他国よりも豊かであるかと問えば答えに躊躇してしまうかもしれません。
それは商業主義であるからだけでなく人々の心の問題もまたあるように思えます。
少年向けのそれはほとんどがバトルを題材にしていると言っても過言ではないはずです。スポーツものは試合での勝負が必須であり学校内でのいじめ暴力ケンカなどから大きな戦争に至るまで「バトル」こそが人間の本質だと訴えてきます。
少女を題材にした作品でも現在はバトルが必要だと描きます。
しかしそれは本当なのでしょうか。
今回話に出てくる「戦争」は何人殺したかと言う勲章で自分の価値を語ります。それはまさに現在日本のマンガ・アニメでの価値観と同じであるように思えませんか。
今回の登場人物こだまは「嘘のように気高い少女」です。非常に美しく優しく自己を犠牲にして人を助ける少女です。
こうした神がかり的な少女もまた現在日本のマンガアニメによく描かれます。
そして殺人で得た勲章をひけらかす戦争も気高い神の如き少女もやまびこ(自分)が作り出す世界なのです。だからやまびこ(自分)は死なないわけです。
気高き美しい少女が死ぬ、のもやまびこ(自分)が助けられるはずなのにそれを止めることができないのか、とやまびこ(自分)である夏目監督は自問しているのではないでしょうか。
物語をバトルではない形で描くこともできるはずですがこの日本国民はなぜか殺戮と言う形を好んでいます。それ以外の形式は「退屈でおもしろくない」のです。
夏目監督は『SonnyBoy』というアニメでバトルなしの形を選びました。(いまのところは)
主人公はさえない少年であり、美少女は登場しますがセックスやエロを直接に表現しない形を選んでいます。(いまのところ)
エロチシズムと暴力こそが日本アニメの特徴だからです。
エロと暴力を描かなければ人を惹きつけることはできないのだろうか、という問いかけであり実験なのです。(いまのところ)
あ、おっぱい先生はいましたがw(が、先生ではないという謎)
とても不思議な物語である今回話ですが
「現在日本マンガアニメのエロとバトルと気高い少女偏重への抗議」
として捉えて考えると自分としてはすっきりと理解できるように思えました。
『SonnyBoy』に出てくる少女はちゃんと生きている少女なのです。
希は前半「気高い少女」的でありましたがそれもなくなり友人が遅れてくるとむっとふくれっ面をするわけです。
さてタイトルの「笑い犬」これはさすがにサリンジャーの『笑い男』から来たものでしょう。
『笑い男』のなかで団長が子どもたちに笑い男の話をきかせてあげる話とやまびこが昔話をする話にかけているのではないでしょうか。