『SonnyBoy』このままさよならは寂しいし再鑑賞すればまたなにかつかめるのかもともう一度(二度三度)観て再考察してみます。
久しぶりに1話2話を観てみたら最初の頃は結構雰囲気がが違うのですね。
そしてこれから新しい物語を作り出していこうとする昂ぶりが感じられます。
ネタバレしますのでご注意を。
この物語は少年少女たちが亜空間に漂流してしまったSFであると同時に思春期の彼らのモラトリアム期を重ねて表現していると思えます。
最終回で『二年間の休暇』という小タイトルを付けたことからもその意味は感じられます。
この物語に登場する教師はじめ大人たちは少年少女たちにとって拠り所になれる存在ではないのが注目点です。
まだなにも判らない子どもたちが人生を進んでいくため有意義な助言をしてくれる大人のメンターが存在しないのです。
しかし子どもたちにはそれはわかりません。
本来教師の言葉には従うべき重要な価値があり、両親は保護者であるはずなのですが現実は必ずしもそうではないのです。
本作品はそうした現実社会から切り離されてしまった子どもたちを描いているのではないでしょうか。
主人公・長良は親から見捨てられた少年です。ラインのやり取りに答えがないこと、親子と教師の面談に親がやってこないことからそれがわかります。
そして自分が見捨てられていることに悲しみケガをした鳥を見捨ててしまったことを希に指摘され苛立つのでした。
8月16日長良たちのクラスはいわゆる登校日だったのでしょうか。その日に教師との三者面談をするはずが約束をしていたはずの長良の母親は学校にきませんでした。その理由は明確ではありませんが彼の心が傷ついていることは確かです。
長良は現実社会という暴力に苛まれた少年です。
例えば楳図かずお『漂流教室』の主人公が母親から愛され楽しそうな少年時代を送っていたことと比較するとそのギャップは甚だしいものです。
それは『十五少年漂流記』との比較でも同じです。
そんな気持ちを抱えて本作の主人公・長良は異世界へと漂流するのです。
冒頭の長良が現実社会へ戻ろうとする気持ちがまったく見られないのは当然です。
しかしそんな長良の気持ちが次第に変化していくのが描写されます。
傷ついた鳥を見捨てた長良が希との語らいを経て迷い猫を保護し瑞穂に渡して感謝される、そんな経過をたどり友人たちのために自分の能力を役立てることに喜びを見出していくのです。
この喜びは現実の学校教育の中ではあまり感じられない感情のようにも思えます。
学校の制度では常に個々の競争を強いられ能力に順列をつけられることに価値があるからです。いわば他人を落とし自分が優位に立つことがすべての世界なのです。
しかし漂流世界ではそうした現実世界での価値を持つ者、成績上位の委員長や野球選手として期待される生徒の評価が失われてしまうのです。
代わりに現実社会ではダメダメだった朝風や長良の能力が生存戦略として活用されていきます。
さてちょっと話がそれますが物語には大きく二つの種類があるといいます。
いわば男性的物語と女性的物語です。
性差を言うのははばかられることではありますがわかりやすいのであえてそのまま使ってみます。
男性的物語といえば主人公の男子が旅立ち経験を積んで大きなパワーを得て怪物と戦いお姫様と王国を手に入れる、という立身出世物語です。
女性的物語は逆の物語です。
遠くへ旅をするというよりも自分の心を見つめ自分が求めている真実を追求し幸福を得る、という心を癒す物語です。
本作品の主人公は男子で異世界という旅をしていくのですが怪物と戦って恋人を手に入れるわけではなく自分の心を追求していく話です。
長良は異世界の旅というモラトリアム期を経て実社会に戻りますがいわばお姫様=恋人を得てはいません。宝物も王国もなしです。つまり戻った世界が見違えるようなハッピーランドだったわけでもなくモテ男になったわけでもなくバリバリ働ける有能男になったのでもないのです。
しかし弱い鳥を思いやる=困った人を助けたい、という気持ちを手に入れます。
その気持ちだけが彼が得たすべてです。
しかしその気持ちによって希と再び接点を持つのです。
それは長良が自分でつかんだ大切な出会いなのです。
長良の成長をもう一度観ていきましょう。