ラスト2話には世界における男性女性のシステム=からくりが劇的に示されています。
観ているのが辛いほどです。
これを観た男性はどう思うのでしょうか。声が聞こえてくるように思えます。
「これはお姫様と王子様の物語に過ぎない。だが俺たち男の大半は王子ではなく姫に手が届くことなどない民衆なのだ。俺たちの叫びを聞け」
ネットを見てるとこればかりです。
その辛さもまたあるのでしょうがそれはそれでまた別路線で訴えていただくしかありません。
ここではとにかくウテナとアンシーの声を聞いてください。
ネタバレしますのでご注意を。
物語のキーワードになっている「世界の果て」はアンシーの兄・暁生であることがわかります。
そしてウテナが追い求めていた王子様ディオスでもあったのでした。
しかし現在の暁生は王子様の成れの果てでしかありませんでした。
今は妹のアンシーに性的虐待を繰り返しながらそのことを「彼女が求めていることだ。私たちは愛し合っているのだ」という言葉で誤魔化し欺瞞と自己防衛だけを考えているにすぎないのです。
これは身内から性虐待を受けている少女たちが置かれる状況そのものです。家族だけでなく学校や職場という身内にも言えます。
こうした欺瞞の歴史は長く続けられてきました。
何故なのか。
男性中心社会では女性はそうしたからくりに苦しみ憤りながらもそれを利用して立ち回る方法しかなかったのです。
しかし現在そうしたシステムと王子様=権力者の欺瞞を女性たちが破壊しなければならないのです。
とはいえ女性たちもシステムの中でそうした破壊を行うのは自分自身の危険と直結してきます。
ウテナが自分は女性だと認識しながら男装し男言葉を使っていたのはその破壊行動の一つです。それはすぐに上からの圧迫を受けますが同時に少女たちからの憧れでもあり他方からの嫌悪も受けてしまうものです。
ラストでのウテナとアンシーの言動はひとつひとつそんな男性社会での女性を表現しています。
男性からの虐待に自殺しようとするアンシー、自分こそが裏切者だったと泣くウテナ、再びアンシーを守ろうとするウテナ、男性からの要求にウテナを攻撃するアンシー、しかしそれでもアンシーを救おうとするウテナ。
どれもが男性社会で足掻く女性たちの言動です。
そして暁生とアンシーとウテナのやりとり。
自分の身を守るためにアンシーを矢面に立たせる暁生にぞっとします。
これまで女性が犠牲となって男性が守られてきたことを多く見てきたからです。
お姫様を守る王子様を見たことはほとんどないように思えるのです。
そして、ウテナはいなくなってしまいます。
このラストは素晴らしい。
何事もなかったかのようにすましてウテナを貶めようとする暁生にアンシーはきっぱりと別れを告げます。
今までの奇妙な表情のアンシーは消えそこに立つのは未来への希望に輝くようなアンシーでした。
さてさてこうして私たちは幾原邦彦作品を追いかけてきました。
『少女革命ウテナ』では男女の対立と少女たちの連携を。
『輪るピングドラム』では逆に兄と妹ともいえる疑似家族の愛情と少女たちのつながりを。
『ユリ熊嵐』では少女たちの愛がさらに濃く描かれ。
『さらざんまい』では逆に少年・青年たちの友愛が濃く描かれました。
現在は『輪るピングドラム』の劇場版が製作されていますので再びあの世界を観ることができるのでしょう。楽しみです。
その後は?
イクニは男女の世界をどのように思い描くのでしょうか。
今のところイクニ世界では一般の日本男女の愛情に輝かしいものがあるようには感じられません。私もなんとなくそう思っている節もあるのですが。
なので少子化していくのも当然なのでしょう。
しかしやはり描いて欲しい気もします。
それとも絶対無理なのでしょうか。
その答えを聞くのが怖い気もします。