アニメ版『ジョゼと虎と魚たち』
思いがけぬきっかけで観ることになってしまったアニメ作品でした。それがなければ観なかったかもしれないと思えばどこでどんな巡りあわせがあるかはわからないものです。
今観終えたばかりでの勢いで少し書きたいのですが素晴らしいアニメでした。
原作である田辺聖子著を読んだばかりでその違いにも感銘を受けてしまうのです。
ネタバレしますのでご注意を。
なんといっても感動するのは原作を忠実に作るのを求められがちな日本の製作でテーマもストーリーも大きく変えてきた勇気ではないかと思えます。
それは歩けなくて車椅子で移動するジョゼを劇中劇で「人魚姫」とした部分にも表れているのではないでしょうか。
アンデルセン作『人魚姫』は人間男性に恋をした人魚が歩ける足をもらう代わりに激しい苦痛を味わう、という設定になっています。
しかし彼が別の人間女性と結婚することが判明します。その男性を殺してその血を浴びれば人魚姫は元に戻れると告げられますが彼女はそれをせず自死を選ぶのです。
田辺聖子著はこの物語をそのまま移し替えてはいませんが幸福な恋をしていながらジョゼは「完全な幸福は死と同じだ」と「そして自分はそんな幸福の中にいる」と大好きな恒夫のそばで眠る最後の場面はやがて来るに違いない別れを予感させるものになっているのです。それは仏教的な「執着しない」こと刹那的な幸福を味わうこと、ともいえるのですが。
そして本作品、タムラコータロー監督によるアニメ版はこれを大きく変えてきました。
それはディズニー製作『リトルマーメイド』が元ネタである『人魚姫』を大きく変えたことに後押しされているとも思えます。
その時日本での反応は
「悲劇に終わるのが美しいアンデルセン作『人魚姫』を脳天気に変えたアメリカ人って」
というものがかなり強かったと記憶していますがその後その変更はしっかり定着していったのです。
本作ジョゼのキャラクター造形は素晴らしい。なんというか、百点満点というのか教科書ともいうべき構成になっていました。合わせて恒夫のキャラクターもみごとにそれに共鳴していく形になっていました。
ジョゼは誇り高く気が強いけどそれでも社会に出ていく障壁はあまりにも大きかった。
一方、恒夫は申し分ないほどなにもかも優れた男性です。(ところで前評判のぐだぐだ男ってなんだったのか、今となってはよくわからない)
その恒夫が自分から飛び込んだとはいえ事故で彼自身が歩けなくなってしまうのです。
リハビリでなんとかなるとはいえ輝かしい未来を失い自暴自棄になる恒夫を今度はジョゼが励まし助ける。
絶望に落ちることで恒夫は本当の意味ですばらしい男性になることができた、そしてジョゼも彼を助けたいという気持ちで前へ進むことができた、という完璧な物語でありました。
こうして文章として書いているとあまりにも素晴らしすぎ感がありますが観ている間は感激で涙にくれておりました。
ことのきっかけとなった脚本の変更への批判、「障害者女性に対するハラスメントの削除」の批判の答えですが、その原作案件は冒頭で恒夫がジョゼを助ける際に胸を触った、という処理でなされていたように思えます。
後は物語が長くなりエピソードが増えた分そこここでハラスメント描写はなされていた、ということもあります。
私の感覚としては昨今の日本製作アニメがあまりにも性的ハラスメント描写が多すぎて辟易というよりも嫌悪を感じていた時に本作がそうした性的描写を無くした作品を作れたのは逆に評価すべきことではないかと思ってしまいます。
(例を挙げれば大人気だった『君の名は。』は性的ハラスメントに満ちていましたね)
性的ハラスメントはむしろ客寄せの条件になっていることを思うとあの批判をされたことは「気持ちは察したいのですがそれは別の形で表現してほしい」と言いたいのです。そして本作は別の形で表現されていました。
さらにいえばセックス場面も削除されているのであり全年齢向けでしかも客寄せハラスメントを避けてくれたとも言えます。
むしろ原作から変更された設定脚本について賛同したい。
何といっても重要な脚本の変更はジョゼが健常者の女性に嫉妬をするエピソードと逆に同性の友人ができるエピソードです。
恒夫のガールフレンドの健康的な脚を見つめるジョゼの苦しみはどのハラスメントよりも辛いものでした。
そして同性の友人を追加した設定には拍手をしたいのです。
同じ作品を好きと分かち合える友人の存在は何よりも大切なのです。
先日TVアニメ『SonnyBoy』に「昨今の日本アニメに絶望していたのがやっとほっとした」と書いたのですが本作でもまた同じセリフを言わねばなりません。
(公開時点はこちらが先ですが)
件の評論の方には申し訳ないですが日本の作品はあまりにも性的ハラスメントが多すぎました。
「それはあたりまえ」「それがないと意味がない」という一部の評もあるのですがこうして素晴らしいアニメ作品が生まれたのを見ればそうした部分を切り捨てていくことに意義があるのです。
その方の言っていることとは論点が違うのはわかっていますが。
あまりにも素晴らしすぎるという評もあるのかもですがやはりこれは単なるいわゆる「障害者を描いた作品」「障害者をどう思うか作品」などではなく「誰もがジョゼであり恒夫である作品」なのだと確認できた気がします。