「山田玲司のヤングサンデー」での原作解説考察に影響され通常なら絶対観ない読まない映画と小説を体験しました。こういう出来事は楽しいものです。
とはいえ結果映画にしろ小説にしろ好きになれたとは言い難いのですが今まで知ってるようではっきり考えてこなかった視点をもう一度改めて見つめるきっかけになれたのは思いがけない重要な事柄だったのでした。
知っていたつもりで解っていなかった、というのは「スクールカースト」についてです。
私の学生時代、というよりも自分の思い込みが優先されるのかもしれませんが私の知識の中ではカースト上位というのは「家が金持ち、成績優秀(学業もスポーツも得意)容姿端麗」が絶対でそこから生徒会長であり部活キャプテン・クラス委員というリーダー的存在に繋がり他の生徒から尊敬憧れを受ける、というものが実体験やマンガ・映画・小説などにも反映されていたという記憶でした。
しかし現在(現在の現在はどうかわかりませんが)ではそれらは微妙にずれているのですね。確かにいわゆる頭が良く運動神経が優れていて美男美女であるのが重要なのですがそこから生み出される人を惹きつける魅力そのものがカーストを決めていく、というシステムになっているわけです。
昔重要視されていた「家が金持ち」は確かに本人の容姿や能力に影響を与えはするでしょうがそれがそのままポジションを上下するわけではないというわけです。なので小説でも映画でも各人物の家柄についての説明はほとんどないのです。
現在の若者であればこれらは当然のことなのでしょうが私と同じ世代以上はもしかしたら私同様そこらがよく呑み込めていないかもしれません。
そしてこれは小さな学校内のみの現象ではありません。
だからこそ今世間で最も重要視されるのは「インフルエンサー」と呼ばれる人々になるのだと今更理解したわけです。
社長だから政治家だから歌手だからスポーツ選手だから作家だから、ではなく職種はそれらでもいいのですが「インフルエンサー」と呼ばれることこそが今最もカースト上位であるとされるのです。逆にいえばインフルエンサーでなければ金持ちでも美人でもいまいちなわけです。
マジで私は今回『桐島、部活やめるってよ』映画と小説でそのことを認識したのでした。
さてこれは前置きです、
以下ネタバレしますのでご注意を。
映画を先に観てやはり気になって小説を読みました。
それらですぐに思い出したのは(年齢のせいもあって)デュ・モーリアの小説『レベッカ』です。
『レベッカ』では名前が明かされない女主人公がとある大富豪と結婚するのですが彼には今は亡き前夫人がいてその名を『レベッカ』といいます。
いわば『レベッカ、死んだってよ』というところです。
名無しの女主人公は自身見た目も中身もさえない小娘で誰からも軽んじられてしまいます。そして死んでしまった前夫人のレベッカがいかに美しく賢く運動能力も高く会う人々すべてを魅了したかを聞かされ続けうちのめされていくという物語です。物語の現在においては彼女は登場しないという点も同じです。
次はテレビドラマ『ツイン・ピークス』です。
これもローラという美少女が水死体で見つかったことから物語が始まります。
アメリカ最北部の田舎町の高校生だったローラは様々な人との交流があり愛されていました。
同時に彼女にはいかがわしい店の買春の事実から聖女のような優しい行為まで多くの側面もあったのでした。
『桐島』での桐島にはそうした複雑さは描かれませんが『レベッカ』とは違いローラの死によって残された人々が変化していく、という部分が似通っています。
これは前の二つよりも共通するものを感じます。
『トーマの心臓』ではトーマが投身自殺する場面から始まります。美少年で人気者だったトーマの死に皆が衝撃を受けます。特にユリスモールにとって心を揺るがすものでした。
『桐島』は彼が部活をやめたという噂が立った後まったく姿を現さず友人や彼女にも連絡をしないことから波紋が生じます。親友の宏樹にとってそれは重大な事件でした。
しかしここで小説と映画ではかなりイメージが違ってくるのです。
映画は一見映画部の前田涼也が主人公に思われます。
いわばスクールカーストの底辺にいる彼の目を通してカースト最上級の運動部員やその彼女、そして中位のブラスバンド部員との対立が描かれていくのです。
しかし映画を観ていくと実はこの物語の主人公は菊池宏樹だということが最後でわかります。最後突然菊池宏樹主体となるのです。
そして小説での主人公は歴然として宏樹なのです。
これは作者の朝井リョウ氏自身が運動部(バレー部)だったということもあって映画部の涼也より運動部員たちのほうが共感できたのでしょう。つまり作者は明確に「カーストトップ」出身者でありもしかしたら宏樹や桐島のような空虚感を感じ涼也のような底辺の映画部を眩しく思ったのかもしれません。
ところがその理由で作るなら映画監督はどうしても映画部涼也に共感せざるを得ません。
なので小説の主人公は歴然とカーストトップの宏樹なのに映画の主人公はカースト底辺の涼也になってしまいしかし実際は宏樹なのでラストで慌てて主人公が入れ替わる、という奇妙な構成になってしまったのです。
小説からのこの改変は作り手が共感できた方を主体としてしまったこととはいえやはり奇妙に思えますし映画がいまいち奥へ入っていけなかった理由になっています。
なぜならこの物語は桐島が部活をやめたことでそれまでイライラとしつづけるだけだった宏樹がその苛立ちの原因が何なのかを考え桐島に部活をやり直せよ、と言うことを決意したことで自分自身に光明を見出すものだからだ。
映画において吉田監督は自身の投影ができる映画部の前田涼也を主人公にしたかったのだろけどそれはこの物語の主題を分裂させてしまったのです。
それは致命傷だったとしか言えません。
続きます。
おまけ・トーマにあたる桐島(読みようによってはトー(ジ)マとも読める)は自殺はしませんが(映画では飛び降り自殺をしたかのように見えるのは偶然か?)