ガエル記

散策

『桐島、部活やめるってよ』 映画と小説(吉田大八と朝井リョウ) その2

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映画は原作小説の映像化でなければならない、わけではないと私は考えています。

ですからこの小説の映画化で内容が変わっていること自体にはなんの問題もないのですが小説で明確に表現されていたものが映画化で分散されぼんやりとなりよくわからないものになってしまったのでは何のための映像化なのかと言わざるを得ません。

文章を具現化すればわかりやすくなるはずなのに逆に主旨が伝わりにくくなってしまっているのです。

 

 

以下ネタバレしますのでご注意を。

 

 

 

それは〝かすみ”の描き方でわかります。

小説ではかすみは映画部前田涼也の希望として描かれています。バトミントン部でカースト上位であり同時に映画が好きで涼也に好意を持っている魅力的な女子です。

それが映画になるとカースト上位はそのままですが涼也に思わせぶりな言い方をして実は馬鹿にしている、という嫌な女子になってしまっています。

小説では素晴らしい女性として描かれていたヒロインが映画ではダメ女として登場する。

そこにはどんな意図があるのでしょうか。

 

朝井リョウ氏の小説での表現は明らかです。

朝井リョウ氏は小説家でありいわゆるカーストでいえば底辺に属する(そうではない小説家もいますが)ことになりますが学生時代はバレー部というカースト上位にいたという両方の気持ちがわかる存在なのでしょう。

(注:ここでいうカーストというのはチャラいほど上でひきこもりほど下である、という言説にのっとっています)

小説は幾人かの語りによって成り立っていますがやはり菊池宏樹と前田涼也のダブル主人公でありさらに菊池宏樹は苦悩の末に自己救済を見出すという点で際立っています。

朝井リョウ氏はくっきりと前田涼也×東原かすみ、そして菊池宏樹×野崎沙奈のカップルの格差を見せつけます。

好きな映画が同じ、というつながりで引き寄せ合う涼也とかすみは今はまだなにもなくとも互いを思いあっているのです。

一方の宏樹と沙奈のつながりはなんなのか。カーストのトップともいえる宏樹のかっこよさに沙奈は価値観を見出しセックス彼をつなぎとめています。

しかし宏樹はそのつながりに苛立ちを感じているのです。

そして部活にもいかずちゅうぶらりんで彷徨っている自分と違い自分の好きなものに打ち込んでいる底辺カーストの前田涼也を眩しく感じてしまったのでした。

彷徨いながら苦悩する宏樹はついに自分の苛立ちの原因をつきとめます。そして部活をやめた親友・桐島も自分と同じだったのだと気づきそのことを伝えようと決心するのです。

シンプルで明確な内容です。

 

ところが映画の吉田大八監督はこのシンプルな構成を大きく変えていきます。そしてその際に朝井リョウ氏を見習って自分自身を投影しようと考えたのでしょう。

吉田監督のプロフィールを見るとこちらは常にカースト底辺にいたのではないかと思われます。カーストでは良い高校・良い大学には意味がなくあくまでもちゃらいかそうでないか、です。

しかも吉田監督は私と同じ年齢なので私同様スクールカーストの意味をよくわかっていない可能性を感じます。

吉田監督は朝井リョウ氏に倣って自己を前田涼也に投影することにしたのでしょう。それは同じ映画監督という点で理解できます。映画部の底辺ぶりはなかなか微笑ましくそこにはとても魅力を感じられました。それは小説でも描かれていたことでもあります。

そして映画ではポスター自体涼也になってしまうほど彼がメインと位置付けられます。

最初に言ったようにそれ自体は良いのです。しかし最後の最後で突然宏樹を主人公にしてしまった。

それはそうでしょう。

宏樹の自己救済の場面は素晴らしいからです。

「自分は何なのか」と苦悩し周りを見つめ深く考えていく宏樹は修行僧でありさらには桐島をも救おうと願う救済者でもあるのです。

さすがに吉田監督もこの素晴らしいエピソードを捨てるのは惜しかったのです。

しかし俺は「君に決めた」と前田涼也を推しながら最後に菊池宏樹に浮気するのはダメなのです。そんな浮気者は許されないのです。

前田涼也に自分を見て彼を描くと決めたら最後までそうすべきでした。

美味しいとこだけつまみ食いは許されません。

そのくせ吉田監督は宏樹にまったく共感していないように思えるのです。

映画の宏樹は突然、ほんとうに突然涼也にからんできます。それがあまりに突拍子なくて驚きました。

小説では宏樹の語りで表現されていくのでそうしたちぐはぐさがないのですが、映画は完全に失敗していました。

私は映画を先に観たのでぽかんとするしかなかったのです。沙奈への反感は描かれていたので「もしかして宏樹は彼がずっと好きだったのか?」とすら考えてしまいました。

いやいや、小説を読めばその心理はしっかり把握できました。しかし映画だけの人は瞬間意味不明でしょう。

これは視点がいきなり変わったことからの失敗です。

映画の初歩として視点の切り替え、というものがあるはずだと思うのですが。

日本の映画はこうした初歩的失敗が非常に多いと感じます。

 

それでも吉田大八監督は同じ映画監督である前田涼也を主人公にしたかった、それはもう仕方ないのかもしれませんがそれではなぜ魅力的な女子・かすみをあんな嫌な人格にしてしまったのでしょうか。

これも自己投影の現れ、なのでしょうか。

もしかしたら吉田監督は学生時代に女子から好かれる、という経験をまったくしなかったのでしょうか。

あまりにもあっけらかんとかすみから好意を持たれる底辺カーストの涼也を描いた朝井リョウ氏は女子から好かれる感覚と好きになる感覚を持っていたのでしょう。

しかし吉田監督にとって底辺カーストの涼也が女子に憧れはすれどその憧れ女子から「好意を持たれている」というのが理解しがたいものだったのではないでしょうか。吉田監督は小説のその部分を「これはおかしい」と反感を持ったようにすら思えます。

 

さらに驚愕なのはこの映画で日本アカデミー賞最優秀作品賞を受賞したと記されていることです。この頓珍漢な映画がトップでは他は推して知るべしとしか言いようがありません。

逆に観客動員は低かったそうですがそれは当然だろうと思えます。

 

吉田大八監督による『桐島、部活やめるってよ』に関してはこういう作り方をしてはいけません、という反面教師として観るしかないと考えます。

途中でいきなり推しを変えてはいけません。

しかもそれが自分の気持ちではなく取って付けた収束ではなおのことです。

 

小説、朝井リョウ桐島、部活やめるってよ』は正直に言えば私にとってそれほど好きなものではないのですがなんといっても「スクールカースト」とそれにつながる現在の意識と昔の人間の感覚はまったく違うのだ、と気づかせてくれたことに感謝をするばかりです。

長い間知ってるつもりでいたのにまったく理解していなかったと教えてもらうのは貴重なことでした。