2004年製作。
意味をつかみにくい言葉を選択した会話劇の形になっているせいもあって難解な作品と思われているようですがそれらはすべて本体を隠すための隠れ蓑なのでそれこそイノセンスに観ればごくごく当たり前に純粋なラブストーリーでありました。
ネタバレしますのでご注意を。
本筋は思いきりクラシックな一途な愛がテーマになっていました。
バトーの草薙素子への思いは恥ずかしくなるくらい純情な熱愛です。にもかかわらずその恋心を打ち明けられず胸に秘めているだけの姿は思いきり「寅さん」そのものなのですが押井守監督としては「寅さんのオマージュですか」と言われるのは忍び難くてこのようなペダンチック会話劇に仕立て上げたのでしょう。
しかしそれを含めこのアニメ映画を観ているといろいろなことが解ってとても面白いのでした。
まあこれも当たり前のことですが無論ここに描かれるシチュエーションは押井守監督の好物に満たされているわけです。
胡散臭い中華街、ヤクザとのドンパチ、少女とのセックスを望む嫌らしい男ども(と認識すること)そして男の純情を謳いあげるハードボイルド。
そうした感覚は私もやや共通するものがあるので理解しやすくはあるのです。
悲しいのは肉体をさらりと捨てた草薙素子と比較して男性であるバトーは肉体を捨てることには強い抵抗があるということでしょう。
それは観ている者たちに対しても問われています。
本作の画面にあふれる人形の裸体を見て人はどのように感じているのでしょうか。
若く美しい女性いや少女の裸体のイラストが日本のコンテンツにはあふれています。どこを見ても何を見ても裸体に近い少女たちがイノセントな笑顔を向けてくるのです。
しかし本作での少女の裸体はそれらとは違うと感じるはずです。
不思議ですね。
「少女の裸体のイラスト」であるのは同じなのですが違うとは。
一般の日本コンテンツの少女イラストはあくまでも少女を模して観る者に欲情を掻き立てようと誘うのですが『イノセント』の中の少女たちは同じ「イラスト」でも生命のない人形なのです。
それでもバトーは草薙素子の意識が入った一体の人形の裸体に上着をかけて隠すという「優しさ」をせずにおれません。
それに気づいた少佐は苦笑します。
他の人形たちとまったく変わらない一体に過ぎないのに?
他のコンテンツの少女たちにもこの「優しさ」は必要なのではないでしょうか。
本作に登場する少女人形たちはクラシカルな造形で現在の男性たちの「萌え」を引き出すにはズレています。しかも激しい乱闘で彼女たちの体は破壊され醜悪と言える状況を晒します。
その様子は憐れで悲しいものです。
本作では女性の性が惨たらしく消費されていきますが本作の少女の裸体でそう感じることはできるのでしょうか。
人によってその感覚には差異がありますがコンテンツに溢れているそれらは所詮人形(ひとがた)にしか過ぎないのですがそれにもかかわらず私たちはそれらを見て心が痛みます。
バトーのような優しさこそが欲しいと思うのです。
それにしてもバトーもまた悲しい存在です。
彼は草薙素子に恋していますがその恋心を言葉にするのが怖いのです。
しかもその人はもう実体ではないのがわかっています。
バトーは柄にもなく犬を飼っています。バセットハウンドという犬種です。
その犬の世話をしている時だけバトーは生身であるような気持ちになれるのです。
そしてその犬が寄りかかる体重を感じる時だけ生身の温かさを感じているのでは、と思うのです。