ガエル記

散策

『ソフィーの選択』アラン・J・パクラ

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ずっと以前に観ていた、と思っていたのですが観始めても記憶が戻る感覚がなかったのでもしかしたらまったく観ていなかったのかもしれません。

なにかとよく引き合いにされる映画なので観たと思い込んでいたようです。

一度観たら忘れられない名作と謳われているのですからそんな思い込みもおかしなことですが。

 

にもかかわらずアウシュビッツの悲劇を描いた名作と認識していたこの作品を今観終わって不思議な気持ちになっています。思っていたものとまったく違う内容だったからです。

この映画はいったいどのように記憶すべきなのでしょうか。

 

かなりの長尺の物語を丹念に描いた美しい映像であるのは確かです。

しかしそこにあるのは奇妙な何かでした。

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

 

 

ソフィーの選択』(先日の邦題とは違い)秀逸なタイトルです。

物語の中でソフィーは大きな二つの選択をした、と観る者は感じるでしょう。

ひとつはアウシュビッツで彼女はふたりの我が子のどちらかを死に追いやる選択を迫られました。

この場面ほど恐ろしいものを他で見つけることは難しいでしょう。なんという残酷な状況を考えたのか。

もうひとつは物語の最後に彼女はふたりの男性のどちらかを選ぶ羽目になります。

精神が破壊され異常なほど愛情を示したかと思うと次には烈火のごとく激怒し暴力をふるう男ネイサンか作家志望で頼りない年下ではあるけれど南部の田舎町でのんびりと暮らす約束をして愛情深いスティンゴと。

 

しかしソフィーがネイサンを選ぶのは当然だったのです。

その理由を多くの方は「子供を死に追いやった罰として彼女は自分に過酷な運命を選んだのだ」としていますが私は問題はそこではなくソフィーの父親がネイサンそのものだったからだと考えるのです。

この物語は「アウシュビッツの悲劇」ではなく「毒親に育てられた子どもの悲劇」なのです。

 

私はネイサンがソフィーを過酷に責めたてるのを奇妙に思いました。そしてそこから何故ソフィーは逃れようとしなかったのでしょうか。

 

ソフィーは精一杯尽くしているのにネイサンは彼女に「お前には貞節がない。上司と寝たのか、スティンゴと何をしていたのか」と罵ります。その本人は幼少期に精神を病みそれ以来(仕方ないこととはいえ)自分で作り上げた嘘の世界で生きてきました。

ソフィーの父親は厳格で娘のソフィーを自分の規格にはめ込み完璧な人間になることを課します。そんな父親をソフィーは深く愛していたというのです。

しかしその父親はユダヤ人の絶滅を提唱する人物だったのです。

ソフィーは父親に頼まれた原稿のタイピングをミスし「お前には安物の知性しかない」と罵られます。

ソフィーは愛する父親から罵られたように愛する男性からも罵られています。

そしてソフィーの選択は先に挙げたふたつだけではありません。

ソフィーは(そしてもちろん私たちは)人生において常に数えきれない選択をし続けなければなりません。

そもそもソフィーがネイサンから助けられたとはいえそのまま彼に依存しそれを愛だと思う選択をしてしまった(たぶん彼女にとってはそれは当然の成り行きで選択をしたという思いもないのでしょうが)のです。

そしてさらにそもそも彼女は自分に父親の思想と行動を悪だと思いながらも戦わないまでも逃げ出す選択をしなかったのです。

 

とはいえ現代であっても生活を放り出して逃げ出せる人間はそういないというのはわかります。だとしてもソフィーの選択は常に常に気弱なものであるのが現在の私にはあまりにも惨めに思えました。

 

そして語り手であるスティンゴはソフィーの唯一の希望の選択肢として描かれているのですが果たして彼は希望なのでしょうか。

 

彼の行動とソフィーへの提言はいわば脅迫です。

「DV男のもとに帰れば殺される。僕の妻となって南部で暮らせば幸せになれる」

南部では夫婦でなければ一緒に暮らせない、というのですがそんなのはフリをすればいいだけです。愛しているからこそ結婚したくて言ってしまった言葉だとも言えますがやはりそこに男性の優位性で女性を呪縛しようとする暴力を感じてしまうのです。

もしソフィーがスティンゴを選択していたとしても数年後にはまた彼も同じような暴力男になってしまったのではないでしょうか。

もしくはほんとうに優しい彼から逃げ出し再び暴力男を選び出し酷い目にあう生活に飛び込むのです。

 

ソフィーは常に虐待される選択をしていると私は考えます。

そしてそれは彼女が暴力性を持つ父親いわゆる「毒親」に育てられたからなのです。

 

ソフィーの選択』は原作者・映画監督が狙ったのかどうかはわかりませんが(果たしてどうなのか)「アウシュビッツ劇物語」ではなく「毒親問題物語」でした。

 

そしてまた私はこの原作者スタイロンとパクラ監督がなぜ『ソフィーを選択』したのか、と考えずにはいられません。

この物語は歴史的事実から生まれたものとはいえやはり作り物には違いありません。

他にも多くの描かれてもいい題材がある中でなぜ『ソフィーを選択』したのか。

美しく聡明でありながら男性性なしに生きていけない女性ソフィー。

儚げで守ってやらねば消えてしまいそうな美しいソフィー。

ソフィーは美しさとか弱さゆえに至る所で男性とのかかわりを持ってしまいます。

恐ろしい選択を要求されたのも美しさと弱さゆえです。

彼女の運命を決めていくのはいつもその美しさとか弱さなのです。

原作者も映画監督も男性ですが何故彼らはソフィーでなければならなかったのか。

 

昔この映画を観ていれば私もそこに疑問を持たなかったかもしれませんが現在であれば「なぜ?」と問わずにはいられません。

 

ソフィーを素晴らしく演じたメリル・ストリープは聡明な人です。

彼女はソフィーという女性に疑問を持ちながら演じたのではないのでしょうか。

ソフィーは常に選択を迫られ常に何も選択できない人間なのです。

日本語翻訳では「娘を」と言っているけど実際は「小さい方を」とだけ言っているそうです。彼女ははっきりと「娘を」と選択はしなかったのです。

 

このタイトルはむしろ皮肉と言っていい気がします。

いわば『ソフィーは絶対選択しない』とすべきなのかもしれません。

 

もちろん時代もあります。

物語の舞台も映画化された時期でも。

世界各地で女性は弱い立場の時代でありました。

女性は見た目の美貌と男性を喜ばせる性格が重要な時代でした。

そういう意味でソフィーの描き方は間違ってはいないのです。

しかし現在の目で見てこの描き方はやはり間違っています。

 

ソフィーの選択』はこうあるべきではなかった。

戦時中の物語はさすがに私にはあまり言及できません。あまりにも世界が狂っているからです。

しかし戦後のアメリカでの物語でソフィーは幸福になる選択はあり得なかったのでしょうか。

毒親の呪縛を解き放つことは許されないのでしょうか。

 

そしてスティンゴは別の考えを持つべきでした。

 

もうひとつぎょっとしたものもあります。

映画の中でスティンゴが「こうしてブルックリンでの自己発見の旅は終わった」というのです。

この作品はスティンゴ青年の自分探しの旅のエピソードに過ぎなかったのでした。

この作品は、南部の田舎から作家を目指して上京した未熟で無知で世間知らずの青年が過激に知的に思えたかっこいい男性が実は狂っていると知り、夢見るように美しい女性が若造には思いもかけない過酷な運命を背負っていた事実を知る、という青春体験記映画だったのです。

そうでなければあのラストのセリフはおかしい。

スティンゴは体験したと思っていますがどちらも「聞いた話」でしかない、のでした。

ネイサンの狂気も聞いた話、ソフィーの選択の恐怖も聞いた話、です。

それはひとりの青年が語り手となる形式だからこそなのですが、確かに私たちはかつての戦争の物語は聞くことでしか得られません。

 

そしてその中で考えることだけができるのです。

 

そういう意味でこの映画はやはり重要な作品だと思えます。