ガエル記

散策

『最後の決闘裁判』リドリー・スコット

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2021年製作。

こんなに早くwowowで観られるとは。

絶対観たいという期待の鑑賞でしたが想像以上の作品でした。

とはいえ非常に複雑な構想を感じますので見逃している個所も多々あるような気がします。

しかしまずは最初の感想を書いてみます。

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

 

と書いたもののネタバレはたぶん最初からされていたのではないでしょうか。

少なくとも事件のあらましは先に知ってから観ても問題はない。

最後の決闘場面だけは何も知らなかったのでこれまで体験したことがないほどはらはらドキドキしました。いったいどうなるのか?

 

そして私がこの映画を期待していた理由はこの映画の予告がある前に私が「マット・デイモンは必ず女性への性暴力を訴える映画に出演するだろう」と考えていたからでした。

何故そんな予感を信じていたかというのは数年前ミートゥー運動がアメリカで吹き荒れる始まりとなったハーヴェイ・ワインスタイン告発事件があった時です。

その際に何らかの記事で

マット・デイモンがワインスタイン事件について「まったく知らなかった、気づかなかった」というコメントを出したらある女優から「おかしい。私はなんどもあなたにそのことを知らせた。知らなかった、ではなくあえて聞かなかったふりをしていただけじゃないの」と反駁され追い詰められた”

というのを見たからでした。

 

記事が簡単に見つかりました。これです。

www.elle.com

上に書いた私の記憶はまあまあでしたでしょうか。

とにかく当時この記事を読んだ私もショックでした。

それまでマットとベンに私はとても好感を持っていました。とても頭が良く高い問題意識を持っている男性俳優だとなんとなく思っていたのでした。

にもかかわらずワインスタインの性暴力にはこうした擁護をして女性への被害をまったく問題にしていなかったのです。

たとえどんなに賢そうでも男性の意識というのはこういうものなのかという失望したのは事実です。

その後彼らの反論などは読むこともなかったのですがそれだけにもしかしたらマットたちは何らかの意思表現をしてくれるような気がしてなりませんでした。

もちろん私が単にそういう願望を抱いたからの予感とも言えます。

マットとベンはこの事件

「権力を持つ男性の女性への性暴力を周囲は気づかないだけでなく知らされた時に逆に女性を貶めていく」

そして彼ら自身がその中にいたことに自ら怒りを感じ

「俺たちは何でも解っているつもりでいたが何も解っていなかったんだ」

ということを映画を通じて表現してくれるに違いない、と信じたのでした。

まあ、好きな俳優にだからこそへの激しい思い込み、だったのですがまさかその勝手な思い入れがこんなに早く現実になるとは・・・。

彼らはあの事件後すぐに動き始めたのです。

もちろんそれはむしろ「これは良い映画になる。問題作だ。俺たちでまた世界をあっと言わせようぜ」という意気込みで盛り上がったのかもしれません。

しかしその思いから生まれた作品がこの内容だったのはやはり感心せずにはいられません。

 

しかも単なる俳優だけでなく脚本からマット&ベンでありさらに優秀な脚本家ニコール・ホロフセナーが脚本陣に加わっているのは女性の目線・判断がなければこの映画のテーマが確立しないからです。

そして彼らは性被害を受けた女性をカッコよく助け慰める騎士や王子ではなく自分たちの名誉や立場を守ろうとばかり考える情けない男たちを演じたのでした。

 

これまで映画では数えきれないほど美しいヒロインが悪者に辱められそのたびに男性主人公が颯爽と登場して悪を懲らしめヒロインを救い出し憧れの目で見つめられふたりは深く愛し合ったものでした。

しかし本作の美しきヒロインはマット・デイモン演じる夫に後継者を産むことだけを目的に妻とされます。

美しい白い馬が貴重だからとして仔馬を産むことだけを目的に飼われているのを見て妻・マルグリットは自分の姿と重ね合わせます。

そしてその白馬と交尾しようと近づく目的外の牡馬が激しく折檻されるのを見ます。

 

さてこの作品はいわゆる「羅生門スタイル」になっていて被害者の夫の視点・加害者の男の視点そして被害者である妻の視点から語られていきます。

章の見出しがそれぞれの「真実」となっているのは本人はそう「記憶している」「認識している真実」ということなのでしょう。

とはいえそれらには共通点はあります。

ジャン・ド・カルージュの激しい男性優位性。極端なマッチョとして描かれ彼自身そのことが自慢でもあるのです。

第二章のジャック・ル・グリの真実を観ても彼がマルグリットを強姦したと見えます。しかしそれでも彼としては「淑女なので嫌がってみせたが実は同意していた」と釈明します。まさにレイプ事件によくある事態です。

そして若く美しい二度目の妻であるマルグリットの女性としての力と立場はまったく弱弱しいものだということです。

意志に自由はなく父親に利用され夫に従うしか生きる道がなく夫の名誉欲のために恐ろしい火刑になってしまうかもしれない運命を受け入れる羽目になるのです。そうなればやっと授かった子どもとは死別することになります。

若く美しいだけでなく数か国語を読み書きし家の切り盛りにも長けた判断力を持ちながら彼女には何もない。レイプ被害を女性から訴えることは許されず夫を通じて裁判を起こすしかないのです。

ジャン・カルージュが「妻がル・グリにレイプされたことで裁判を申し出る」と周囲は彼女に冷たくあたります。

その様子は現在の被害女性への周囲の対応を思わせるものになっています。

女性への性暴力事件の様相が細やかに丹念に描かれていくのです。

 

しかしひとつわからないことがあります。

マルグリットは「実際はどう思っていたのでしょうか」

レイプとレイプ裁判の経緯は事実として丹念に表現されますが彼女の思いは隠されているのです。

がそれもまた男性製作陣(マットとベンとリドリー)の意地悪な仕掛けのようにも思えてしまいます。

ジャンとジャックとピエール伯ら男の考えは単純だがマルグリットの女性の考えは謎、と思えてしまうのです。

マルグリットはそもそも夫に深い愛情は抱いていません。

貞節な妻ではあります。

ですからル・グリからの性暴力は真実です。

しかし彼女がどこかで日常の破壊を望んでいたのではないかとも見えてくるのです。

それは彼への愛だとか不倫だとかではなく破壊への願望です。

 

マット・ベン・リドリーは単純に性被害女性を持ち上げるための映画ではなく何とも複雑に真実を訴える映画を作り上げた、と私は感じました。

 

人間というのはなんと奇妙で複雑でおかしな生き物なのか。

男も女もなんと悲しく生きねばならないのか。

名誉や立場などクソくらえ!

と生きていきたいものではありませんか。