ガエル記

散策

『メリダとおそろしの森』マーク・アンドリュース  ブレンダ・チャップマン

気持ちを入れ替えてやはりコンテンツを観ていくことにしました。

なんといってもメリダがとても魅力的でした。誰もが彼女の豊かに波打つ赤い髪に見惚れてしまうでしょう。その赤い髪にふさわしい燃え立つような勇敢な少女の物語でした。

 

 

以下ネタバレしますのでご注意を。

 

 

 

 

ディズニー・ピクサーにとって最も重要なものはこれまでの概念常識を覆していく、ということにあるのではないでしょうか。

大人向けの実写映画では歴史を辿ることに重きが置かれるのだとしても子供向けであるアニメ映画では単に事実を再現することだけではなく何を理想とするのかを描かなければならない、という意志を感じさせるのです。

本作は隅々にまでその気概が行きわたっています。

 

遠い昔の小さな王国の物語です。

メリダは父王と妃である母親から愛され健やかで自由な精神を持った王女として描かれます。

しかし本作にはいわゆる「白馬の王子」が登場しません。

これまでは女子が活躍するとしても彼女を補佐するイケメンが必要でしたが「意味がない」とされたのでしょう。

本作は母と娘の対立の物語です。「習慣」「法則」を守って生きてきた「古い女性」である母親に対して娘のメリダは「新しい女性」であり習慣や法則が「間違い」「不正」だと思えれば新しい道を見つけたいという自己を持っています。

そこへメリダの心をつかむステキな「王子」が絡んでしまうと「母と娘の戦い」という主題が曖昧なものになってしまうのです。

 

作品は幼い小さなメリダが母親に愛され可愛がられている時に巨大な熊に襲われる場面から始まります。

娘を救うために父親は片足を失いますがそのことも彼の武勇伝として語られていきます。母親は娘を抱いて馬を走らせ逃げていきます。

ラストでは父王が抜け出した三つ子の王子を追いかけていきメリダと母親がそれぞれの馬に乗って駆ける場面で終わります。

 

大人の感覚としては単調にすぎる内容とは思えますがメリダだけではなく母親もまた変化していくという意識が明確に表れていました。

 

と私はなかなか楽しめたのですがレビューを見ていると「世界的には大ヒットだったのに日本では何故かコケた」ようです。

その理由はなんでしょうか。

「ヒロインのメリダに共感できない」という声がかなり多くしかも「メリダが不細工、かわいくない」というコメントも多くて驚きました。

何しろ私は最初に書いたように勇敢で赤い髪が魅力的な少女、とベタ惚れだったのですがどうも日本一般では受けなかったのですね。

そうでした。日本では「最初から良い心がけをした間違いを起こさない女子」でなければ受けないのです。

この物語ではメリダが自分が結婚をしたくないばかりに母親に反抗し魔女の助言を信じて母親に変なケーキを食べさせて熊に変身させてしまう、というミスを犯します。(どんなミスだ)もちろんこれは現実では母子対立をして母親を過剰に怒らせてしまう、という比喩でしょう。その時に娘が母親に酷い言葉を投げつけたり心無い行動を取ってしまったり、という失敗を犯します。そして「私は悪くない。悪いのは強情な母親だ」と自分の罪を認めようとはしないのです。

しかしメリダは物語が進むにつれ自分の過ちに気づき最後は「私がいけなかった」と母親に詫びます。

熊の姿が母親に戻れたのはもちろん朝日のせいではなくメリダの心からの謝罪の言葉でした。

しかし日本ではそもそもそうした過ちを犯すメリダを「若さゆえの過ち」として微笑ましく思えないのですね。

現実には結構許しているようにも思えるのですがw作品中の娘の過ちは何故か嫌いです。

日本人にはあまりビルドゥングスロマンが好まれないのです。むしろ『エヴァンゲリオン』のような「成長してたまるか」のほうが受けるのかもしれません。「成長したら負け」くらいの勢いです。

 

なので日本の作品はこうした「大きな過ち」を犯した主人公が「罪を認め」変化し成長するより「なにもできない」主人公が「できる」ようになった変化成長のほうが受けやすいのかもしれません。

 

例えば日本で大ヒットした『世界の片隅に』のヒロインはまさにそのタイプで「なにもできない少女」が強い女性へと成長する物語です。

作品内では取り返しのつかない失敗を犯しますが同時に彼女は絵を描くのに需要な利き腕を失うという罰を与えられプラマイゼロみたいな展開に設定されているのはやはりそうした日本人の「間違う女は嫌い」意識が強く作用しているように思えます。

 

もう一つ言えば日本でも大ヒットだったディズニーアニメ『アナと雪の女王』ではそうした「とんでもない過ち」は描かれない。

メリダ』は大きな過ちを懸命に修復しようとする物語なのですが日本人はそれを汲み取り切れなかったのかもしれませんし、そもそも「修復無理」と思えたのかもしれません。

それ自体非常に面白いテーマに思えました。