ということで『メリー・ポピンズ』映画1964年版を再鑑賞しました。
もちろん今回の鑑賞は他の『メリー・ポピンズ』では意味がありません。ウォルト・ディズニーとパメラ・トラヴァースふたりの心の奥に潜んでいた父親への思いを観たかったからです。
ネタバレしますのでご注意を。
やはり、というのもおかしいですが以前観た時とはまったく印象が変わってしまいました。
奇天烈な不思議ナニーとバンクス一家と銀行家のドタバタ喜劇の中にふたりのクリエイターの切ない思い出が秘められていたのだと知ってしまうとその意味は変わってしまいます。
特にバンクス氏が子供の心を考えない、いわゆる「毒親」だったのが不思議なナニー・メリー・ポピンズの出現で自分を見つめなおし子どもとの関りを考え直すくだりはふたりにとっても癒しだったのだと解りました。
こうした自己分析と昇華ができるのは素晴らしいことです。
とはいえ一方、「毒親問題」は今現在なお続いておりよりいっそう表面化しそれでも解決はなかなか難しい状況です。
そして現在の「毒親問題」は本作のような改善策ではなく「毒親を変えることなどできない」といった諦めの方向へ進んでいる気もします。
それは結局『メリー・ポピンズ』が存在しないからなのでしょう。
本作でも『メリー・ポピンズ』だけがバンクス氏の頑なな心を解きほぐすことができたのです。彼女がいないなら彼はあのままだった。でもメリー・ポピンズは現実にはいない。だからバンクス氏は変わらないのです。
さて現実に『メリー・ポピンズ』を創り出すことはできるのでしょうか。
「毒親問題」という今非常に重要な課題がこの映画で明確に描かれています。同時に仕事に対する問題や女性問題も明示されています。
この作品はまだまだ観続けられる価値がありそうです。
そしてまた楽しい映画でもあります。
ジュリー・アンドリュースの清楚な美しさに目を奪われます。そして歌声に聞きほれてしまいます。軽々と歌い踊る彼女の才能たるや。
相方になるディック・ヴァン・ダイクがまた楽しい。長い手足を思う存分活用した踊りがなんとも剽軽で愉快です。
メリー・ポピンズの飛び方、昔見た時はなんてヘンテコなのだろうと訝しんでいましたが今観るととてもスマートだと思います。箒にまたがる魔女とは違う上品さです。