少し前までは原作の繊細さがアニメでは反映されていないと疑問を持っていましたが回を追うごとにアニメスタッフ特に出崎統氏の思い入れが理解できた気がします。
ネタバレしますのでご注意を。
原作マンガ版ではオスカル、マリー・アントワネット、フェルゼンたちの愛と人生を華やかな悲劇として描き切っていますがアニメ版の特に後半からは明らかに民衆側の目を通して見ているのです。
その心は吟遊詩人が語り、主人公はほぼアランに移っていると言ってもいいのではないでしょうか。
しかもそのアランは原作のアランとは違うキャラクターになっています。
原作のアランは年も若くチンピラ兵士たちのボス的な立ち位置でしかもオスカルに恋愛感情を持つ状況がとても魅力的に描かれています。私も魅かれました。
それがアニメ版アランにはばっさりと切り捨てられます。主人公を恋するキャラがここまで変更されてしまうのはあまりないのではないでしょうか。
アニメ陣としてはこの革命期にまたもや恋愛沙汰を持ち込むのは過剰だと判断したのです。
アニメ版アランはむしろアンドレのほうに肩入れしていきます。自分と同じ平民の身分でありながら貴族であるオスカルに命懸けの恋をするアンドレを応援していくのです。
だからこそ原作ではオスカルが自ら革命側に身を投じたとしているのをアニメでは「私は隊長をやめて愛するアンドレの行動に従う」とオスカルが話すのをアランが「あんたが隊長をやめる必要はない」というなんだかややこしい経緯になっています。これはあきらかにアニメ陣が貴族側ではなく民衆側として描いていきたい、という気持ちの表れなのです。
マンガ原作でアラン以外の平民兵士がか細いモブキャラになっているのがアニメでは貴族たちより体格の良い屈強な男たちとして描かれるのもアニメ陣の気持ちが反映されているのです。
『ベルサイユのばら』は原作も少女マンガとしては他にないほど(といっても少年マンガではもっとないけど)革命の様相を深く物語っているものですがアニメ版はさらに真剣に追及していると感じます。
物語最初の貴族たちの馬鹿話はすっかり影をひそめるのは当然ながら原作で強調されていたアントワネットの王后としての威厳やフェルゼンとの愛の奇跡もアニメ版はかろうじて筋を追ったにすぎません。
アンドレが失明するのもアニメ版を観ていると「貴族の女性に目を奪われた」という比喩のようにすら思えてきます。原作を読んでいる時は思いもしなかったのですが。
オスカルとアンドレの艶やかに劇的な情愛もアニメ版では最小限度に抑え込まれてしまいました。
アニメ化された当時では原作ファンから不満の声があがったのではないでしょうか。
しかし今現在観れば充分であると思えます。
ラストはやはりアランのエピソードになっています。やはり彼が後半の主人公だからなのでしょう。
原作ではオスカルの死後も重要な物語となったマリー・アントワネットとフェルゼンの愛の奇跡もアニメ版ではベルナールとロザリーからアランに伝えられる形式のみとなっています。ここもアニメ陣の貴族蔑視の心意気が見て取れます。
私は今回観て『進撃の巨人』と重ねてしまいました。
あの物語でもすべてが終わっても人々の暮らしというものが簡単に安寧にはならないのだと描かれていました。
「そして人々は幸せにくらしましたとさ」という単純な未来はないものなのかもしれません。
今レビューを見ていると「原作よりもアニメが好き」という声が数多くあります。
それも時代の移り変わりなのかもしれません。
かつて『ベルサイユのばら』で池田理代子氏は革命期の愛の悲劇を謳いあげました。
その美しさに私も打たれます。
が、アニメ版はその愛の過激さを薄め貴族の目よりも平民の目を選択したことで名作と評価されていると考えます。
とはいえフランス革命における人々の愛と人生に着目し素晴らしい物語を作り上げた池田理代子氏の才能は誰もが認める揺るがない事実です。