ガエル記

散策

『ドライブ・マイ・カー』濱口竜介

随分長い間気になっていた映画をやっと観ることになりました。

まず言えばとても良かったです。

想像した以上に素直に良い作品でした。これほどとまでは思いもしませんでした。

 

この映画を知ったのは多くの人と同じように各国で映画賞を取り続けていた時でした。

監督の濱口竜介氏がちょうどその頃TVで観た『スパイの妻』(黒沢清監督)の脚本家に名前が挙がっていて「この映画の脚本を書いた人なら監督作品もつまらないわけはない」という確信はありましたが共同脚本なのでどこがどうなのかはわからない不安もまたあったのも事実です。

詳細はわかりませんが本作を観て確かに『スパイの妻』と非常に重なるものを感じました。

 

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

 

『スパイの妻』で若い夫婦は非常に(特に日本人夫婦としては珍しいほど)仲が良く愛情が露わな関係として描かれていました。本作でも家福と音は熟年夫婦にもかかわらず濃密な触れ合いがあるのが示されます。

しかしその心中は互いにわからないほど複雑であり恐ろしい秘密も隠されているのです。

そこに登場する若いハンサムな男、という設定まで似通っています。村上春樹原作では当の男はもう少し年かさなのですが思いきり若い男にしたのは濱口監督の嗜好なのかもしれません。

もちろん家福と近い年齢より(原作では家福が40代後半、高槻が40代前半だった)離れていたほうがくっきりとわかりやすくなります。

男性作家だと女性の設定も重なることが多いものですが妻の音とみさきもまったく違うタイプとしているのは濱口監督が解りやすい作品作りを心掛けている証に思えます。

 

物語は様々な比喩に満ちていてそれらがテーマを支え導いていきます。

この作品で表現されていくものの一つは家族で深くつながっていても心の中はわからない。それを示すためには個々の大きな努力が必要だ、ということです。

それを表現するために様々な言語で一つの演劇を進行する、その中には音声ではない手話言語というさらに解り難いものもありそれを知るためにはさらなる努力がいるのだと語られます。

家福と音は同じ日本語を音声で話し合え毎日を過ごせる夫婦でした。にもかかわらず音の心を本気で知ろうとしなかった自分を家福は責めます。妻の名前が「音」なのも含みがあります。

家福は緑内障にかかりものが見えにくくなります。これもまた「見たくないものは見ないことにする」という暗喩です。

医者は「この病気の原因はまだよくわからず完治もしない。目薬をさして自分で努力するしかない」と助言します。

つまり音が死ぬ前に医者は助言してくれていたのです。見たくないものから目を背けるな、と。でも家福にその声は届きませんでした。

 

家福は妻から「あなたが帰ったら話があるの」と言われ怯えます。別れの時が来たのか、と。しかし彼はその不安を隠して「わかった」と微笑みそのくせ怖れをなしてわざと遅く帰宅します。その間に音は倒れ死んでしまっていました。

もし早く帰宅していたら、妻を救えたかもしれない。

それともこれはわざと言った音の計略だったのでしょうか。

 

すべてが謎めいています。

 

家福が出会った渡利みさきは中年男を悩みから救う天使役としてはかなり仏頂面でいわば「可愛い女の子」の対極にいる感じです。

しかも寡黙で不必要なおしゃべりをしません。

これは妻の音と逆です。

しかし会話が少ないのに家福とみさきは次第に心を通わせていきます。ふたりに性関係はないのも音との関係の裏返しでもあります。

一方家福にとってみさきは亡くなった幼い娘がもし成長していたら同じ年齢だった、という娘の生まれ変わりでもあります。

ここで映画のラストを想ってしまいます。

取ってつけたような「その後」的なラストです。蛇足と言われてもいるようですが私はとても良いラストと思いました。

ところがこのラスト、観る人によって違って見えるのですね。

つまりもしかしたら人によっては「みさきと家福は恋人もしくは結婚して幸せに暮らしています」と思えるのかもしれないのです。

私は初見直感で

「みさきは家福との出会いで赤いサーブが気に入って同じ車種を買い優しい韓国人夫婦の家で見た大きな犬が気に入ってそれも飼い新しい土地・韓国で心機一転楽しく生活していまーす」

と感じて「良いラストだ」と感じたのですが、間違っていますか?

家福のドライバーとしてまだ働いている、とか本当は在日韓国人だった、とかのレビューまで見たのですがいやそれもまたありかもですが私は直感としてみさきは新しい生活を始めた、と思えました。

だからこその『ドライブ・マイ・カー』なのではと?

家福との出会いによってみさきは自分の車そして自分の人生を見つけたのです。

 

 

この映画を観ながら色々な記憶がよみがえってきました。

ひとつはレイモンド・カーヴァーの『さやかだけれど、役にたつこと』

です。

これはそれこそ村上春樹氏が推薦していたので読んだのですが凄く不思議でもあり一度読んだだけなのにずっと記憶の底でたびたび思い出してきた短編小説です。以下そのネタバレです。

 

 

母親が息子の誕生日ケーキをパン屋に注文した後、その息子が交通事故に会い夫婦は病院で辛い時間を過ごすがあえなく彼は死んでしまう。

夜中知らぬ男から奇妙な電話がかかってきて父親は激怒するがしばらくして母親はそれが自分が注文したパン屋からと気づく。取りに来ないからと催促の電話をしたのだ。子供を失った夫婦にはあまりにも辛い電話だとふたりは憤る。

翌朝夫婦はパン屋に行き怒りをぶちまける。自分自身憤っていたものの状況を知ったパン屋はふたりに語り掛ける。

「よかったら私の焼いたパンを食べてください」

ずっと何も食べていなかった夫婦は勧められたパンをむさぼる。

ちゃんと食べて頑張って生きていかなきゃならんのだから。

こんな時にはものを食べることです。

それはささやかなことですが、助けになります」

 

これはそのまんまこの映画のテーマでもあるようです。

 

家福もみさきも思いがけず突然大切な家族を失ってしまいました。しかも自分の責任ではないかという恐れの中で。

みさきの場合は複雑ですがそれでも彼女の重い呵責になっていました。

互いはその辛い思いを抱えたまま生活をしてきましたがこの出会いによって救われたのでした。

その過程は劇中劇『ワーニャ伯父さん』で説明されます。

「私たちはこれからの長い日々を長い夜を生きていきましょう」

 

素晴らしい脚本でした。

素晴らしい映画でした。

記憶を呼び起こす様々な示唆も感じました。

 

もうひとつ大島弓子『たそがれは逢魔の時間』とも重なりました。

こちらは少女がきわめて性的に登場するのがやはり昔の作品である、とも言えます。なにしろ少女売春なのです。

つまり本作で言えばみさきが10代の魅惑的な美少女として登場する、と言うものになりますが現代はやはり「こわもての女性みさき」であるのです。

『たそがれ』では少女は消え去りますが本作ではみさきこそが現実を生きていくのです。