「グリコ森永事件」を題材にした作品ということで気になり鑑賞しました。
そして作品が訴える方向性にひどくがっかりさせられてしまいました。
いったいこれはなんなのでしょうか。
いったいこの作品を作った人は世界で作られてきた映画を観てきたのでしょうか。観てきてこのような映画を作ることができたのか不思議でしかありません。
本作が技巧的にも非常に幼稚で未発達であるのは仕方のないことかもしれません。
或いは資金や時間が乏しかったのかもしれません。
しかし作品の本質、作品が訴えたいことはそうした技術技巧とは違うものです。そこに言い訳はできないはずです。
この作品を作った人は
「お前は何もできない弱い人間だ。しかしもし国がお前に嫌なことをしても仕返しを考えたらまた別の弱い人間が苦しむことになると覚えておけ」
と言っているのです。
私は原作を読んでいないので(読んでみたいと思っています)原作者の思いはまだわかりませんが映画製作者はそう言い放っています。
幾つかのレビューを見ましたがそうした疑問を持つ意見は見なかったのですが誰もそんな不気味さを感じなかったのでしょうか。
確かにこの映画ではその訴えを正当化するために「声を使われた子どもたち」がどんな悲惨な人生を歩んだか、という描写を持ってきています。
しかし検索してみたところその描写は作り手側のフィクションのようです。つまり子どもたちがどうなったのかはわからないのではないでしょうか。
もちろんこの映画を実話ではなくフィクションとして観た場合子どもたちが悲惨な運命を背負い主人公が衝撃を受けてしまうことに観客は引きずられてしまいます。
がそれはどこかでこの作品が実話である「グリコ森永事件」の再現だと信じてしまうからではないでしょうか。
この映画はあくまでフィクションであって事実とは違うのです。
創作作品として観れば登場人物たちの描き方があまりにも拙い。
悪事をすることに肝が据わっていないのです。
テーラーの男は母親を責めますがそこにこそこの映画やこの国の人間の内容の薄さが表現されているように思えます。愛情が薄いのです。
新聞記者は取材相手に正論を言います。馬鹿々々しいのです。
私はこれまで多くの映画作品や小説で人間にとって何が大切なのかを知らされてきたと思っていますがこの映画はそれらとまったく違う「不正に目をつぶって黙っていろ」と語ってくるのです。これを許してはならないのです。
いったいこの映画を観た人は怒りを感じなかったのですか?
何故レビューに抗議が並んでいないのでしょうか。
映画自体が粗末で俳優たちの演技も稚拙でしたからあまり批評する価値はない、と判断されてしまったのかもしれません。
わたしとしては小栗氏と星野氏に失望しました。
土井裕泰監督は『花束みたいな恋をした』でもその本質に疑問を抱かせた人でした。
私はこの人の人間と人生についての考えにまったく同意できません。
できるならもうこの世界観には関わりたくないと覚えておきます。
この映画が良しとされる社会は恐ろしいと思えます。