ガエル記

散策

『星の子』大森立嗣ー映画『罪の声』との比較

カルト集団の話と聞いて観たくなりアマプラにあるのを見つけすぐ観ようとしたものの冒頭の赤ちゃんが泣く場面ですぐに心が折れて挫折再挑戦してやっと観れました。

私と同じように冒頭で脱出してしまう人がいるかもしれませんがその時間は短くそこを乗り越えれば素晴らしい映画をみることができます。頑張ってください。

 

いやほんとうに観てよかった。素晴らしい映画でした。

つい先日観た『罪の声』とタイトルは『の』を挟んだ似た語感ですが本質は真逆と言えるものでした。これも偶然ではありますが作品の鍵を握る一人ともいえる登場人物を同じ役者氏の宇野祥平さんが演じていたのも奇妙な感覚でした。

大森立嗣監督作品はこれまでも『ゲルマニウムの夜』をはじめいくつか観てきて好きだったのですが改めて作品を追ってみたくなりました。

「日本映画は・・・」と日ごろ愚痴っていましたがこうして良い映画を観てしまうと「やっぱり捨てたもんじゃない」とあっさり肯定派になってしまいます。

しかしここまで優れた映画だとは思ってもいませんでした。怪しい宗教を扱った映画の参考になればくらいに思っていたのですがとんでもないことでした。

 

以下本作と映画『罪の声』のネタバレになりますのでご注意を。

 

 

 

 

この映画の良さ、とはなんでしょうか。

人間の運命、人生は様々な形で遭遇と別れを繰り返します。それを受け入れるか戦うか逃げるかの選択を我々はしなくてはなりません。それはとても難しいことです。

あえてここで先日鑑賞した映画『罪の声』と比較してみます。これも運命です。

『罪の声』(映画)においても登場人物は家族によって恐ろしい運命を背負わされてしまいます。主人公のテーラーの母親はその父親が警察(つまりお上)によって無実の罪を着せられ不遇の人生を負わせられた仕返しに自分の息子を使って反逆を考えます。

映画はグリコ森永事件(を思わせる)によって狂わされた人生を物語っていますが主人公の苦しみは母親によってもたらされたものでした。

『罪の声』の主人公はその負い目がいかに苦しかったかと母親をなじります。そして他のふたりの子どもも同じように事件に巻き込まれ不幸な人生を歩んだのだと描き主人公はたまたま幸運だったと示します。

 

本作『星の子』においては「グリコ森永事件」が「カルト宗教入信」という題材に変わるだけ、と言ってもいいでしょう。

主人公の両親は生まれたばかりの次女の苦しみを見てカルト宗教に入信するのです。これは『罪の声』において主人公の母親がその父親の苦しみの復讐を考えたのと同じです。

が『罪の声』の母親とその息子はこの受難を否定するのです。そのために息子は母親をなじるしかありません。

『星の子』の主人公はまだ幼いと言ってよい少女ですがこの受難を受け入れようと覚悟するのです。

これは『罪の声』の主人公が間違っていて『星の子』が正しいと言っているのではありません。

正不正ではなく映画の在り方としての問題です。

『罪の声』の主人公である中年男性が「運命から逃げる」と決心したのならその苦しみをまた描くべきでした。しかし主人公は自分の母親をなじることだけで何もなかったことにしてしまう。

一方『星の子』の主人公少女は自分がどうしたらいいのか悩み苦しみ家族を嫌いしかしまた愛し大きく揺れながらも家族を愛しながら自分の道を見つけようとし続けるのです。もちろん映画の中でその答えが見つかるわけではなくもしかしたら一生見つけきれないのかもしれないのです。しかしそれでいいのです。

映画というのは映画を作る人間が生み出した考えの結晶です。

『罪の声』で土井裕泰監督は「グリコ森永事件を起こした犯人こそが悪い奴」と描き「そんな悪いことをしてしまう人間がいかに卑劣か」と表現し「巻き込まれた人たちは迷惑し人生と心を破壊された、取り返しのつかないことだ」と結論付けましたがこれはあくまでも土井監督の〝感想です”

人間は様々な運命があり人生を選択しなければならない。映画作品はつまり仮想人生であり監督はその運命と選択を描くことで自分の〝感想”を表現する媒体です。

 

土井監督は『罪の声』で「人に迷惑をかけるな」と呼びかけ大森監督は『星の子』で「人は迷惑をかけるものだ」と呼びかけています。

 

果たして人は人に迷惑をかけずに生きていけるのでしょうか。

 

『星の子』主人公少女は生まれてすぐから病弱で親に「迷惑をかけました」

しかし両親はこの時決心したのです。

「この子を絶対に助けよう」と。

そのために悪魔に魂を売るようにカルト宗教に入信したのです。

彼らは家族のために世界に復讐したのです。彼らはその覚悟をした。

少女もまた両親の愛を知っているからこそ他人から「怪しい宗教に入っているおかしな人たち」と罵られ笑われても離れることはできない。それでも悲しくて苦しくて離れようと足掻き時には反抗しながらも寄り添い続けてしまう。

誰が見てもこの宗教はおかしいし離れるべきだと考えるでしょう。私もそう思っています。しかし少女は両親をなじるのではない道を求めたのです。

『罪の声』の中年男の幼稚さと『星の子』の少女の深い思いはそのまま監督ふたりの「感想の差異」です。

 

『罪の声』と比較すると書きやすかったのでやってしまいました。もちろん『罪の声』の主人公の考え行動は当たり前で正しいとも言えるでしょうがそれを映画にすることは当たり前でも正しいとも私は思えません。

 

『星の子』の少女の受難を私たちは考えなければなりません。

自分の運命人生両親そして自分が選択する道を。

本作において考えたいこと考えるべきことはまだまだたくさんあります。

主人公の親がカルト入信していると知ってても親友でいる少女のこと(☜すごい勇気がある)ハンサムだけど妙に怒りっぽい男性教師(☜いったいなんなんだこいつ)少女を助けようとするおじさん、そして上で書いた少女にカルト集団の中で「ここおかしいよ」と真実を告げる中年男(宇野翔平)カルト家族から逃げ出した姉まーちゃん、カルト集団の目立つ存在のふたりなど。

 

そしてラスト。

少女を挟んで三人一緒に流れ星を見つけようとする両親。

それがいかに難しいことか。それは永遠にくることはない奇跡なのかもしれないのです。

そして私たちはそれがないことを知っています。

これが三人一緒の最後の夜かもしれないしそうではないのかもしれない。

しかし少女は確かに成長していくのです。