ガエル記

散策

『 ストーリー・オブ・フィルム 111の映画旅行』マーク・カズンズ  その2

何故私たちは映画を観るのだろう。

私は映画に何を求めているのか。

 

私はたぶん「自分が知らない世界」を知るためなのだろう。

などといえば狭い小さな世界に住んでいる私にとってはほとんどすべてが知らない世界なのだけど。

 

都会そして田舎、異国の地異国の人々、宇宙人(と思しき者)さらに美男美女でもあるし極悪非道な者を観て恐れおののきたいのかもしれない。

 

映画の中では古代にも未来にも西洋のお城にもジャングルの奥地にも行くことができる。そしてそこに住む想像もつかない人々の考えを知ることができる。と思える。

そんな装置なのだ。

そしてどの世界を観たいか、どの人々と出会いたいかのボタンは自分で選ぶことができるのだ。

 

自分の身近な欲望だけで選ぶのも良し戦慄を味わうのも良しだ。

 

若い頃は戦慄を覚えたくて過激な作品を選びがちだったのだけど最近はすっかり疲れてしまったのか心地よい作品を求めたくなる。

とはいえそれはそれでなかなか巡り合えないのは何故なんだろう。

しかし最高に心地よい映画に出会ってしまってそればかり毎日観返し続けるということになるのも恐ろしい。やはり永遠に「最高に心地よい映画」を探し続けるのが一番良いのかもしれない。

 

映画はまだまだまったく未開なのだと思っている。なぜなら少なくとも製作者の上層ほど男性ばかりで女性が関与していないからだ。

これが小説世界なら日本には世界最古の長編小説作家である女性小説家がいる。その後は男性作家がその世界を占めていたのかもしれないが現在では再び女性作家が活躍している。他のクリエイティブな世界も同様なのだけど映画作品は莫大な資本がかかるメディアであるためなのだろう現在世界的に女性が乏しい。ほとんどいないと言っていい。携わる女性は多いのだけど首脳部にはいないのだ。

となれば映画はまだ半分しかできてはいない。

これから小説やマンガのように女性による映画が作られていくからでそれで映画世界がまったく変わってしまうのは予想できてしまうのだ。

 

とはいえ小説やマンガ、絵画や音楽に比べ映画製作は簡単にいかない。

繰り返すが莫大な資金が必要であり多大な労働力を操作しなければいけないからだ。

しかし他分野の多くの女性作家たちが世界を変えてくれたように映画界も変わっていくのだろう。私の残された時間でどれほどそれが体験出来るかわからないが楽しみなのだ。