ガエル記

散策

『薔薇の名前』ジャン・ジャック・アノー

「登山モノ」を集中的に観ていくと言っておきながらのいきなりの本作ですがwowow放送でついTV鑑賞してしまって語らずにはおれなくなりました。

とはいえ本作は私にとっては「登山モノ」への憧れと恐怖に通じるものがあります。

それは未知なるものへの憧れと恐怖なのです。

同じように感じられる方は同志であるでしょう。

 

さて非常に難解と言われる本作です。私はその雰囲気が好きで何度も鑑賞しましてやっと今回何かが解った気がしました。まだ手掛かりほどでしょうが。

 

本作がとても好きな理由の一つはバスカヴィルのウィリアムと愛弟子アドソがホームズとワトソンの関係を思わせるからでしょう。バスカヴィルと聞けばシャーロキアンならすぐにホームズを思い起こします。

もうひとつは映像の荘厳さです。重々しく冷徹でまさしく山岳を思わせるものがあります。それは一筋縄ではいかないものでありひとりの人間が太刀打ちできはしない底知れぬ力が存在します。

 

そこで殺人事件が起き我らがホームズたるバスカヴィルのウィリアムはその謎を解いていくのです。

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

 

さてまずはタイトル『薔薇の名前』とはなんなのでしょうか。

本作には薔薇は一度も出てはこないのです、

代わりに登場するのはひとりの美しい少女ですがその少女は教会から捨てられる残飯を争って奪うような貧困の中に生きています。

たぶん非常に無知であるだろうと思われるのは彼女がほとんど言葉を話さないことで察されます。また教会内で売春することで何かしらの施しを受けていることが示されます。

アドソはこの少女に導かれるように初めての(そして最後の)性交を行ってしまうのです。修道士としては禁じられた行いですが師匠のウィリアムは諭しながらも怒りはしません。この辺りはやはりフランチェスコ派の道士たる所以でしょうか。

 

アドソはこの少女の名前をついに知ることはなかったのですがその面影を一生忘れることはなかったのでした。禁じられたこの行いを後悔はせずそして記憶にとどめたのです。敬虔なキリスト信者として一生を捧げながら心の中に薔薇の記憶を秘めていたのです。

さてこの物語を私たちはどう受け止め考えるべきでしょうか。

 

師匠であるウィリアムもまた心の中に薔薇を秘めています。

彼にとってそれはアドソの破戒よりもっと怖ろしいものかもしれません。

それは「知の追求」です。

それは絶えずキリスト教と争ってきたのではないでしょうか。

本作の中では「笑いは神の存在を損なうもの」として疑問視されます。

そしてウィリアムはアドソに神の存在に対する疑問を投げかけそしてついに二人は道を分かちます。

様々な知識そして科学はキリスト教そして宗教に疑問を突き付けていきます。

ウィリアムとアドソは神を愛しながら未知の世界に憧れてしまった者であると思います。

 

そしてそこが私が「登山モノ」と重なるところであると感じているわけです。

登山もまた未知への憧れであり恐怖だからです。

登山と宗教は非常に近しくその二つはよく重なります。教会や寺院が頻繁に山の中にあるのはその表れです。