ガエル記

散策

『パワー・オブ・ザ・ドッグ』ジェーン・カンピオン

こんな映画が観たかった、という衝撃で打ちのめされています。

何度も観てカンピオン監督の映像も観てなぜこんな映画ができあがったんだろうかという不思議に浸っていました。

 

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

 

家父長意識で凝り固まった男フィルに酷い虐めを受けた母と息子。母親ローズは怯えて酒に酔うことに逃げ込む。

しかしローズが唯一嗜むピアノの腕前をフィルは蔑み徹底的に苛め抜く。

死んだ父親に対して息子のピーターは「母を守る」と約束していた。

一見やせっぽちでひ弱で女の子のように優し気な美しさを持つピーターだったが彼は執念といえる一途さでフィルを死へと追い詰めていく。

 

最初に感じるのはもちろん居丈高で意地の悪いフィルへの怒りであり弱い母息子への同情と共感である。フィルの弟ジョージもまた兄にずっと苛め抜かれていた。優秀で大学も卒業し牧場を経営していく兄と対照的に大学に合格することもならず内気で不器量なジョージもまた常に兄に引け目を感じ孤独だったのだ。

 

「女のようだ」とからかわれるピーターには強い意志と知識と行動力があった。

彼の不屈の復讐劇は見事で拍手を送らざるを得ない。憎々しいフィルを叩きのめしたのだ。

 

しかしカンピオン監督の目はピーターよりもフィルの方に注がれていることに気づく。

この映画でもっとも痛ましいのは誰でもなくフィルなのだ。

 

彼は男社会の中で尊敬される男として存在しなければならない。そのためには自分の中にある本性を隠し通さなければならない。

この作品の中でほんとうに怯え続けてきたのはフィルなのだ。

 

男社会において同性愛者であるのはそれを見破られるのは怖ろしいことだ。見破られた途端に「男ではない」と嘲られてしまうからだ。

フィルはそれを知っていてだからこそピーターに「なよなよするな=見くびられるぞ」と忠告したのだ。母親のローズに対してのいじめも同じ含みがあったのだろう。

しかしそういった価値観は次第に「間違いだった」と認識されていく。

現在では「多様性」が謳われ「なよなよした男」も存在を認められている。

ではフィルの存在は?彼はどうすればいいのだろうか。

もちろん彼自身が変わるべきなのだ。

自分を見つめ生まれ変わればいいのだ。

とはいえフィルにとってそれは決してできないものなのだ。

なので彼は死ぬしかなかった。

 

多様性が認められる現在社会で彼は死ぬしかないのだ。

勝ったのはなよなよ男なのだ。

 

これはいったいどういう映画なんだろうか。

 

フィルは死んだ。

家父長男。ホモフォビアのゲイ差別主義者で自分を隠し続ける彼は死ぬしかない。それは正しいことでありそうであるべきなのだろう。

弱き存在のピーターこそが正義なのだ。

 

男社会は死んだ。

そんな歴史は終わったのだ。

この映画はカンピオン監督によるそんな男たちへの鎮魂歌なのだろう。