私の子供時代に始まっていまだに続く『ルパン三世』シリーズ。
よく言われることが「それぞれの心に〝俺のルパン三世”がいる」だ。
私も同じくで私にとっての『ルパン三世』はシーズン1のみであってそれ以外はまったく認めない。
みんな大好き『カリオストロの城』も作品としてはよくできていると認証するけど『ルパン三世』ではないと断言したい。
何故そんなことが起きてしまうのか。
他の方の〝俺のルパン三世について”は考察のしようもないが〝私のルパン三世について”だけは考えてみたい。
まず私が好きになった『ルパン三世』はアニメシーズン1だった。原作モンキーパンチ氏の作風も好きだけど購読しなかったのを考えるとやはり「モンキーパンチによる原作『ルパン三世』は私のルパン三世ではなかった」のだ。
ではアニメ版はなにが原作と違うのか。
今になって考えてしまったのだがそれは当時映画界での流行りだった『冒険者たち』現象なのじゃないか。
フランス映画『冒険者たち』はその後の映画に大きな影響を与えた。『明日に向かって撃て』はそのオマージュ作品だし日本の映画作品にも数々ある。
ふたりの男とひとりの女はそのままルパンと次元と不二子に当てはまる。日本のアニメではほとんど全部と言っていいほど10代の少年少女が活躍するのに対し彼らは20代も越えたように見える。
いい年をした才能ある男女が普通の生活に収まり切れずドロップアウトして夢を観続けるという感傷的なイメージこそ私が『ルパン三世』シーズン1で感じた〝私のルパン三世”なのである。
そうした1970年前後のファンタジーを重ねて観てそこに魅力を覚えたのだ。
原作『ルパン三世』にはそれほどその思い入れはないのかもしれない。私は原作を追って読んでいないのでそこはわからないのだがアニメについてはそうした感傷的な思いれは感じられないできた。『カリオストロ』にしてもそんな感傷は感じない。
にしてもそもそも原作にもなさそうなのだからこれは本当に私が勝手に『ルパン三世』に感じてしまったイメージとしか言えない。
とはいえそれがあのアニメ作品の魅力だったのだからどうしようもない。
としても
繰り返すが10代の少年少女ばかりがヒーローヒロインになる日本アニメの中で『ルパン三世』及び峰不二子が特殊な存在なのは確かだし普通の生活から外れる選択をし続けているのも稀有なのだ。
「どこにでもいる男の子&女の子」ではないという選択。
いい加減擦り切れてしまっているのだけど日本では代替がないためにいつまでも『ルパン三世』に頼るしかないのかもしれない。