凄い映画であるのは確かなんだけどこれをどう書いたらいいのか、わからずしばらく迷ってしまいました。
他の方のレビューを見ていくうちに自分がなにを書きたいのか少しわかったような気がしました。
ネタバレしますのでご注意を。
いったいこの映画はなにを描きたかったのか。
というのはすべての映画感想での主題になるはずです。
本作は実際にあった連続殺人事件の犯人西口彰を作家・佐木隆三氏が榎津巌という名の男として構築したものをさらに再構築したものとして観なければならないでしょう。
あらすじとしてはもともとの西口の殺人履歴を追っているのでしょうがこの映画の焦点がそこにあるわけではないのは明確です。
鑑賞者は先に実際の事件を映画化したもの、と知ってから鑑賞し始める場合が多いでしょうが冷酷な殺人場面にぞっとする以上に執拗に繰り返される性描写に「ここまで必要なのか?」と思わされてしまいます。しかしそれは無駄な場面なのではなくそここそが今村監督が表現したかったものなのです。
どの国の映画にも言えるのですが現在のものよりかつての映画は人間の生々しい性を描いたものが多かったのです。
現在はそうした生と死と性の持つ意味が希薄になってしまったように思えます。やたら残酷趣味のスプラッタが多いことはその証明であるのではないでしょうか。
榎津はちゃらんぽらんと生きていきます。僅かな金額のために人の命を簡単に奪い嘘をつき出会った女と関係を持っていきます。
なぜ彼がこんなにも容易く感情動かすことなく人を殺せるのか。
その答えは最後に彼の父親によって示されます。
「お前は憎しみの無い人間しか殺せない。ほんとうに憎い人間は殺せないんだ」
そして「ほんとうに憎い人間」というのは他ならない父親その人でした。
父親は敬虔なカソリック信者で巌自身もそうでした。
巌はそんな真面目な父親の中に偽善を観ていました。
映画は本能のままに生きていく息子とずっと自分を偽って清く生きていく父の姿を交互に映し出します。
だけど父親は真実善き人であったのでしょうか。
映画は現在では「あり得ない」濃厚さで生と死と性をどろどろと表しすっかり軟弱になってしまった私たちの目を驚かします。
「昭和」という時代がいかにブザマに醜悪だったのか。
男たちは女を強姦することしか考えておらず女たちはそれから逃れるすべを持たず時にはその男すら愛してしまう。
とはいえこの映画で描かれたことが今現在では「あり得ないことではない」とも同時に思います。
映画表現はすっかり軽くなってしまったけど人間はやはり生と死と性から逃れ切ったわけじゃない。
だからこそ今でも本作は名作として語られるのだと思います。
上にあげた榎津巌を演じる緒形拳の眼差しに惹きこまれます。
同時に自分を偽って生き続ける父・鎮雄の姿にも共感してしまうのではないでしょうか。
私は以前鑑賞してから記憶に残っていたのは息子の話より父・鎮雄の話の方でした。
殺人鬼・巌のパートより父親の悶絶のほうが印象的だったのです。
父親を演じたのが見知らぬ役者ではなく三國連太郎であることも父親の物語が重要だと意味しているに違いないのです。
凄まじい映画です。
殺人の壮絶さ。特に榎津が知り合ったばかりの老弁護士を殺して箪笥の中に入れておき何の躊躇もなくスキ焼の材料とトンカチと釘を買って帰ってくる場面は最大の見せ場でしょう。
なぜ釘とトンカチを?
買い物袋を置いた榎津の後ろで建付けの悪いらしい箪笥の扉がギイイと開き死体となった老弁護士のうつろな目が露わになるのです。
榎津はその扉を打ち付けてスキ焼を食べようというのでした。
その頃父親は息子の嫁の豊満な裸体に触れる罪に苛まれています。
しかも嫁は「お義父さんの涎をなめてあげます」などと言うのです。
この誘惑にどうやって贖ったのか。
この義父の息子嫁の関係を神はどう考えるのか。
今村昌平監督は榎津巌の78日間の逃亡劇を濃密に描き出したとともに父と息子の生と死と性を表現した。
この映画の映画化権ではひと悶着があったと記されているが別監督の場合だったら榎津を『ジョーズ』に見立てて面白おかしく作られていたと書かれている。ちょっと観たい気もするがこの名作は生まれなかったのだと思うと天の采配はありがたい。
昭和の映画をそのまま再現する必要はないけど、この重厚さは継承してほしい。
ポン・ジュノ監督の『殺人の追憶』はまさにその継承作品だった。時代にアップデートしてもいた新しい時代の名作でした。(私自身はむしろこの映画のほうが好き)
その意味でも本作『復讐するは我にあり』を作った今村昌平監督の運と才能に感謝したい。