ほぼ見ない感じの映画ですが自分も少しは大人にならないといけないと思って鑑賞する決意をしました。
冒頭観ていると以前観た記憶が出てきたのですがたぶん少しだけ観て止めたのだと思われます。
屈指の名作でありあの小津安二郎監督をして「俺にできない」と言わしめた作品とされています。
ダメダメな屑男とそのクズにしがみつかないと生きられない愚かな女のだるい物語を観続けることになります。確かにこれを「良きもの」と感じる感受性は昔はまったく持ち合わせてはいなかったし今も好きとは言えないのですが少しだけ何故他の多くの人がこの作品を良いと感じるのかを考えられるようになった気はします。
ネタバレしますのでご注意を。
森雅之演じる富岡は痩せてしなびて疲れた男にしか見えません。
一方、高峰秀子演じるゆき子は勝気な美貌を持っているがダメ男のうえに女にだらしなく毒舌家の富岡との関係をどうしても断ってしまうことができない。
妻帯者の富岡は初めて会ったゆき子に毒舌を吐くくせに自ら彼女に近づいて関係を持つ。妻とは別れると言いながら別れることはしない。だけどゆき子とはっきり決別もしない。そんな中でゆき子と旅行した先で出会った若い人妻にも手を出す。
それ以外にも気に入った女性とはすぐつながってしまう男なのだ。
ゆき子にも別の男との縁があったのだが結局富岡に戻ってきてしまう。とはいえその別の男も良き人格者どころか守銭奴めいた風変わりな男なのでゆき子と言う女性は男性を選ぶ感覚がズレているのだとしか言えなくもある。
富岡とゆき子だけでなく主要人物は「嫌な人間」ばかりの映画作品なのだ。
以前観た時はとても耐えきれなかっただろうし嫌悪感しかなかったろうし当たり前だと思う。
今観てもそうとしか思えないけど人間って少なくとも日本人ってこの通りだしそうやって生きていくものなのだとあきらめている。
そのあきらめ感が嫌だしぞっとする。男たちは女たちを性的にしか見ていないしそれこそが情愛だと信じている。女たちも男と女とはそういうものだと感じている。
時代が移り人々の価値観が変わったように思えてもそういう本質は同じなのだろう。今現在でも同じことで私たちはやっぱり苦しんでいる。
最期ゆき子はもしかしたら富岡と一緒に暮らせるかもしれないというところまできて突然体の具合が悪くなり咳きこみ倒れこんでしまう。
やっとふたりきりになれるという状況から逃げるかのように死んでしまうのだ。
そして今まで薄情だった富岡は死んでしまったゆき子にすがりついて泣き出すのだ。
ゆき子を演じる高峰秀子の毅然とした美しい顔立ちとあきらめきった声音がなければ今回も観ていられなかったかもしれません。
原作と脚本が女性の手なので観ていられるのだとも思う。
久しぶりに出会ってふたりでつづれ歩く時に富岡が「水虫が痛い」と言い出しそれを聞いたゆき子がふたりの関係を家族のように思ってほっとするのだ。
本作でちょっとおもしろおかしかったのがゆき子のもう一つの腐れ縁・伊庭が金儲けの方法を探った結果たどり着いたのが「宗教家」だったという顛末。
どの手段より弱った人間を救うという触れ込みのインチキ宗教が最も金を集められるというのはそれこそ今現在証明されているではないか。
なぜこんなエピソード入れたのか、一気に面白くなってしまう。
仏印(ベトナム)で出会ったふたりが最期屋久島で死別することになる。
だがゆき子はすでに病が重くなって寝た切りだった。
上にあげた画像の二枚目、小舟で身を寄せ合ったふたりの場面が良い。
この時だけがふたりの幸福の時間だったのだ。