ガエル記

散策

『三国志』横山光輝 第四十二巻

こ、小見出しが「曹操の死」!ネタバレぃっていつか来るだろうから仕方ないんでしょうけどいきなりぃ。

じゃじゃじゃKは大丈夫だよねKは。

うううううう(´;ω;`)ウゥゥ

関羽表紙絵4・5回目です。

深い深い関係です。

 

 

 

ネタバレしますのでご注意を。

荊州へ向かう関羽の前に現れたのは蒋欽。彼では関羽に太刀打ちはできない。しかしそれを追う関羽軍を迎えたのは彼らの家族・父や弟であった。

関羽は「かかれかかれ」と命令しても誰も動かない。

「父や弟と戦うのは嫌だ」と兵たちは逃げ出したのである。

関羽になすすべはなかった。関平関羽は「もうよい」というだけであった。

残った兵は四、五百ほど。関平は近くにある無人の麦城に落ちのびましょうと声をかけた。

 

麦城につき関羽が外の様子を見ると呉の大軍に囲まれていた。

上庸には劉封孟達がいるのだがそこへ行くのは命懸けである。廖化は使者として出ることを志願した。

関平が敵兵を抑えている間に廖化は馬を飛ばす。

上庸の劉封はボロボロになった廖化を迎えた。関羽の手紙を読み劉封孟達に相談した。

援軍を頼むという関羽の言葉を孟達ははねつけた。

上庸を降伏させたのはつい最近。安定していない中で空にするおつもりか。

「とは申して関羽将軍は我が父と義兄弟。それを見殺しにはできぬぞ」しかし孟達荊州には呉の三、四十万。魏の四、五十万。それらの大軍にわれらわずかの兵で援軍に向かえると思われまするか、という。

その使者は漢中王のもとに行くべきでございます、と孟達は言い放った。

我らはこの上庸を守るが役目。

劉封はこれに言い負けてしまう。

 

劉封はどうしてこの理屈で納得してしまったのかまったくわからない。

とはいえ劉封が援軍に行ったとしたら確かに全員死亡だったのは確かだろう。

それでも行かねばならなかった、と思ってしまう。

 

廖化劉封から援軍を断られ怒気を含んで成都へと向かった。いったい何日かかるのだろう。

 

関羽は戦いながら援軍を待った。だが五百の兵も今や大半が負傷し食糧も尽きかけていた。

麦城へひとり入ってきた者がいる。諸葛瑾であった。呉の使者として関羽に会った。

諸葛瑾関羽の状況を言いあらわし孫権に帰順なされと説いた。再び荊州襄陽をすべて治められましてはと。

孫権は将軍と力を合わせて曹操を打ち破り共々漢の皇帝を助け参らそうとのお考えでござる。

諸葛瑾は「将軍よくお考えくだされ」と重ねた。

関平がここで「もう何も言うな。我らの覚悟は決まっている。余計なことを言うと斬るぞ」と剣に手をかける。

ああもうなんだか諦めている気がする。

(それかお腹すいて力出ないか)

 

諸葛瑾孫権に報告した。孫権もまた「殺すには惜しい武将よ。なんとか捕らえられぬか」と問う。

これに呂蒙「捕える方法はございまする」まず負傷兵が多いと聞き肉親に呼び戻させれば兵たちは城を逃げ出すでしょう。

そうなれば関羽はおそらく脱出を試みるでしょう。その際城の北の険しい小路を逃げやすいようにしておき山かげに伏兵をおいておくのです。

 

呂蒙の計画は遂行された。

 

関羽軍兵の家族らが呉軍側に立って訴える「息子や無事か」「早く荊州に帰ってこい」

その夜脱走兵が出た。

残る兵は三百ほど。援軍を求めにいった廖化はまだ戻らない。

周倉と王甫は麦城に残って敵の目をあざむくのでその間に関羽に外へ出て軍備を整えなおしてほしいと願い出る。

これを関羽は受け城外を見ると一か所手薄な道があるのに気づきそこから突破することにした。

これは無論呂蒙の策略である。

関羽は城外へ出た。

手近にいた呉軍の兵を叩き斬り一気に突っ切っていく。

難なく呉の陣を突破した。

と間もなく行く手を猛火に遮られた。とそこへ伏兵が駆け込んできた。

必ずや軍備を整え麦城へ戻ると約束した関羽はここでの対戦を望まず谷間へと逃げ込む。

そこに伏兵が潜み関羽たちの乗る馬の脚を狙って切るという計略である。

関羽が乗る赤兎馬の足が切られ関羽はドウと落馬した。「父上」と駆け寄る関平も同じく馬の脚を切られ落馬する。

そこへ投げ網がかけられた。

その後、関羽孫権の前に引き出される。孫権はこの稀代の豪傑を今もなお残したいと思う気持ちがある。

一度は子供たちの婚姻まで考えたのだ。しかし関羽はこの場でも

これを聞いても孫権はなんとか降伏するよう誰か説き伏せてくれぬかと臣たちに問う。

臣は「関羽を説くのは無用。かつて曹操が得ようとした時もできず去っていきました。今や曹操は脅かされるほど関羽には玄徳しかない人物でありこのような人物を召し抱えれば曹操の二の舞です。いま息の根を止めねば後日後に禍をのこしましょう」

これには孫権も頷き「首を打て」と命じた。

呂蒙が待っていた。

関羽の首は打たれた。この時五十八歳であった。

建安二十四年十月。

 

横山光輝氏はこの関羽の最期をかなりあっさり描いているように思える。

と思うのは気のせいだろうか。

そもそも本作は極めて淡々と進む筆致ではあるがこの豪傑であり副主人公ともいえるキャラクターの終わり方としてはあまりにあっけない幕切れにも見える。

私には横山氏は関羽の死を長引かせるような仕打ちができなかったのではないかと思えてならない。関羽びいきの私としてもこの最期の描き方はちょうどいい過不足なしと思えます。

玄徳への思いなどは二次創作で願いたいものです。

 

関羽将軍の死は麦城に伝えられた。王甫・周倉は続いて自死を選んだ。

 

かくて麦城も呉のものとなった。ここに荊州襄陽の地はすべて呉となったのだ。

 

だが関羽の死を人々は深く惜しみいろんな噂を創り出した。

関羽の愛馬赤兎馬関羽の死後まぐさを食べなくなり死んでいったとか

この霊は私も見たい。

 

呂蒙関羽の霊に呪い殺されたとか。

(霊に呪い殺されたりはしないと思うが呂蒙関羽の死後まもなく病死したのは事実のようです。まさか気に病んだということもないとは思うのですが現実は不思議です)

 

しばらくして張昭が孫権のもとへ訪れた。荊州襄陽平定を祝った後、張昭は関羽の首を打ったことに懸念を示した。

孫権が意を問うと張昭は「桃園の誓い」を持ち出した。玄徳張飛は死を覚悟で呉に攻め入ってくるでしょう。そればかりか蜀には豪傑が綺羅星の如く存在する。彼らが死闘を繰り広げればどちらが勝つにしてもその被害は絶大。それを一番喜ぶのは曹操です。

そうなれば曹操は一気に攻め滅ぼしにかかるはず。

 

これを聞いて孫権関羽の首を打ったは浅慮だったと気づく。

孫権が蜀との全面衝突はまずい。何か手立てはないか。

これに張昭は「関羽の首を曹操にお届けなされませ」と答えた。

我らは魏と蜀の死闘を見て動けばよいのでございまする。

「なるほど」と孫権は同意し塩漬けしてある関羽の首をすぐさま曹操に届けさせた。

 

届けられた関羽の首を見て「これで余も枕を高くして寝られるのう」と喜ぶ。

これを聞いた司馬仲達は「これは呉が送ってきた大きな禍」と言い出す。

さすが仲達。

仲達は呉の策略を見通しこれで蜀は魏に乗り込んで参りますぞと説いた。

曹操は慌てて「この首を呉に突き返せ」と命じた。

仲達はこれも制して「それでは大王の度量が小さくなります」という。

「この首を国葬のような盛大さでねんごろに葬るのです。禍を転じて蜀に恩を売るのです」

曹操は葬儀を盛大に執り行う命令を出す。(しかしうきうきと考える曹操おかしいw)

これは名言。

 

孔明は星の動きを見て悪い知らせを感じた。

そこへ玄徳が「関羽が夢枕に立つのじゃ」と寝間着で現れ孔明に告げる。

「なにか関羽の身に起こったのでは」

これを孔明は打ち消した。

そこへ伊籍・馬良が到着する。

「樊城攻撃中に留守の荊州が呉に落ち関羽将軍は援軍を求めてございまする」

そこへ麦城から廖化が到着する。

ズタボロ姿の廖化関羽将軍が麦城にて呉軍に囲まれ孤立している、と報じた。

玄徳はなぜ近くの上庸で劉封孟達に援軍を頼まぬかと問う。廖化は頼みましたがおふたりは上庸は少人数ゆえ成都へ行けと。

玄徳はこの答えを聞いて驚く。

例え少人数でも関羽ならば戦えた。我らの援軍が来るまで持ちこたえられる男じゃ。

その罪誅してもあき足らぬ、玄徳は明日にでも自ら一軍を率いて行くと伝え孔明も救いに行くと申し出た。

 

翌朝急がねばと焦る玄徳の前に急使によって「関羽将軍、呉に捕らえられ打ち首になった」との知らせが入る。

玄徳は「信じぬ信じたくない」と泣き伏した。

孔明に言葉はない。

漢中王を寝所へと命じた。

玄徳はその日から三日間食も取らず寝込んでしまった。

孔明は玄徳を諫めた。

 

関羽のことを考えると食べる気が起らぬと背を向けてしまう。

孔明は「それほどお嘆きならなぜ仇討を考えませぬ」と問いかけた。

玄徳は「関羽の恨み必ずや余が晴らしてやる」と答えた。

「ならばお体を壊すような真似はなさいますな」

孔明は魏と呉が関羽の首にまつわって計略していると説いた。

玄徳は起き上がりすぐにも出陣と言ったが孔明はこれを阻止。

関羽将軍が生きている時ならば一刻を争いますが今はじっくりと様子を見て戦う時でございまする。魏と呉が互いに我が国を相手に討たせようと企んでいる時、うかつに動いてはなりませぬ。

呉と魏に何らかの不和が生じた時蜀は初めて起つべきでしょう。

これに玄徳は同意しよくぞ諫めてくれたと礼をいう。

 

しかし玄徳にもうひとつの懸念があった。孟達と我が子劉封関羽に援軍を送らなかったことだ。これを罰せねばならない。

孔明はこれにも「ことを急いではなりませぬ」と答える。

 

玄徳は皆の前に姿を現し関羽の弔いを命じた。

そこに現れたのは張飛だった。

玄徳は張飛の焦りを抑えようとした。

張飛は「自分だけでも呉に攻め入りたい」とこぶしを握る。

孫権だけじゃなく義兄を見殺しにした奴らもゆるせねえ、という張飛に玄徳は「早まった行動をしてくれるな。軍規にそむけばわしの手でおまえも討たなければならなくなる」

桃園で生死を共にすると誓い合った三人がその時になって簡単に誓いを守れない立場になっている。

そしてその原因の一つが自分の息子であるという事実。

あの時、玄徳はうっかり養子にしたいと願い出たことがこんな形で関わってしまうとは。