ガエル記

散策

『バビル2世』横山光輝 もういちど その7

さて第3部「宇宙ビールス」編に突入しました。

この編を読みながらまた諸々考えていきましょう。

今回は『バビル2世』はハードボイルドの頂点という視点を書いてみます。

 

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

 

『バビル2世』を読んでいると今現在のマンガ作品とはかなり異質であると感じるのだけどそれは時代の違いではなくやはり横山光輝氏の特色だと思う。

かつてハードボイルドという文芸用語があった。生々しい現実に対面する主人公(男性が多い)が感情を表現せず行動していく姿を簡潔に示していく小説でありそれがそのまま映画にもなり一時期のブームを作った。

だがそんな表現もいつしか緩みだしハードボイルドという言葉がカッコつけた男のナルシズムに変化していき(最初からかもしれないが)今では死語に近いのかもしれない。

特に現在ではそういう「男の生き様」は疑問視されてしまうものでもある。

確かにカッコつけているだけ、に感じるものも多い。

 

が、横山作品を読んできてまさしく氏の作品は徹底したハードボイルドだと思うのだ。

特に本作『バビル2世』は頂点に思える。

それは少年誌掲載という条件があったから生まれたものかもしれないがバビル2世が十代半ばの少年であるからこそなのだろう。

 

彼が成人であればそのイメージは変わってしまう。

視野が狭く思いつめることのできる中二世代にのみ許されるハードボイルドなのだ。

萩尾望都氏もそれを感じてそのままレッド・セイという少女をハードボイルドに描いている。

 

バビル2世の心は読めない。彼が何を考えているのか誰もわからないだろう。

突然バビル1世からコンタクトを受け「いかなければならない」と迷うことなく両親と別れ美少女の同級生からも未練なく去ってしまう。

そして以後まったく思い出さない。

コンピューターと三つのしもべだけが頼りだがしもべたちは何度もヨミに乗っ取られ絶対的な信頼を持ちようがない。

そもそもバビル2世はコンピューターに対して違和感と疑惑を持ち続けている。コンピューターに対する表情は進むほど固いものになりその言葉遣いにも愛着を感じない。

こんな孤独の中でよく耐えきれる、と感心する。まだ幼い少年がなんの触れ合いもぬくもりもなく生きていけるものなのだろうか。

しかし横山光輝はこのいたいけな少年に過酷な運命を容赦なく課す。

そしてバビル2世はその状況でも迷うことなくヨミとの戦いに没頭していく。

むしろヨミと戦わなければならないという使命を感じているからこそ生きていけるのでありそんな存在のないままバビル1世が言うように地球を征服しても虚しいだけだろう。

横山氏がバビル2世のヨミ後を「きっと孤独な寂しい人生を送ったんだと思いますよ」と語っているというのをしてもヨミがいた間だけ生甲斐を感じていたとしか言いようがない。

バビル1世が「愚かな地球人」相手に孤独な一生を送ったようにバビル2世にも幸福は訪れなかったんだろう、と思うと悲しくてやりきれないではないか。

しかしそれが「ハードボイルド」な生き方なのだ。

 

バビル2世は国家保安局局長と話す時だけ少し少年らしさを出す。

子どもだし本当はもっと甘えたいんじゃないかと思うと切なくなる。

一方コンピューターには

このそっけなさ。

見る目も冷たい。

 

さてここで「『バビル2世』ではどうして女性が出てこないのか」という問題にも取り組みたい。

これは「横山光輝マンガではどうして女性が出てこないのか」にもそのまま通じるのだけど。

(出ては来るけど存在がかなり薄い)

 

普通、というか他のマンガ作品では多く、というかほとんど絶対といっていいほど男性主人公ならその愛の対象となる女性が登場する。

これはハードボイルド作品でもほぼ必然だろうと思える。むしろハードボイルド作品ほど女性の存在は不可欠でありクールな生き方をしている男性主人公を慰めるために登場することを作家も読者も期待する。

ところが横山光輝氏は不思議なほど「女性を慰め役」として「登場させない」

 

これに対し「横山光輝は女性が描けないからだ」という言説もよく見かけるが多数の少女マンガでヒロインを愛らしく描いてきた横山氏が女性を描けないわけがない。

まあそう書くと「そういう意味ではなく」と苦笑されてしまうのだろうけどむしろ今現在の価値観を考えれば横山光輝氏は「女性を主人公の慰安に使う」ことを拒否したのではないかなと思ってしまうのだ。

 

あの手塚治虫氏も「マンガの描き方」で「可愛い女性を登場させると良い」という旨を書いていたと思う。(そういう手塚氏自身はそれほど女性を慰安に使ってないと思うから悪だくみだよな)

 

例えば『バビル2世』の設定を他作家がしたならコンピューターを女性に映像化もしくは受肉化してバビル2世の「お相手」にするのは容易く考えられる。そうしていわゆる「サービス画像」を提供するのは必至とも言えるのだけど横山氏は微塵もそれをしない。

アニメではロデムを女性化させたのに原作ではまったくない。

私が横山光輝を「真のハードボイルド」だと思うのは(そんな命名笑うけど)主人公にそこまで過酷な運命を担わせてしまうからでもある。

 

女性性を男性主人公に絡めていくのは悪いこと、ではないだろう。そこにも葛藤や戦いがあるはずだ。

しかし多くのコンテンツでは女性性が安易に男性主人公の慰安相手として提供されていく。

横山氏がそうした安易さを毛嫌いしていたのではないか。

いや書き手自体がそれを楽しむことだってあるに違いない、が横山氏は好まなかった、とも言える。

これも成人マンガ作品であれば異様ともなるが主人公が少年であればむしろ健全ともみなされてしまう。

横山氏が『バビル2世』を愛したのは必然だったように思う。

 

先日『ギルガメシュ叙事詩』においてギルガメシュ初夜権を要求する粗暴な暴君だったのがエンキドゥという対等な力を持つ男の存在を知って激しく戦いついに互いを認め親友となり理想的な王となる、という物語の「激しく戦う」部分を『バビル2世』として描いたように思えると書いた。

ギルガメシュはイシュタルという美女に求愛されるがすでにそうした性愛を嫌うようになったギルガメシュは彼女を退ける。

『バビル2世』には強くそのイメージを重ねてしまう。女性との性愛ではなく男同士の友愛に基づく戦いのイメージだ。

 

なので横山光輝氏は『バビル2世』に女性性愛を加えることを拒否した。

このテーマはまだ書ききれていない。

次の記事にも続く。