ガエル記

散策

『忍者武芸帳 影丸伝』白土三平 その9 完了

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

 

天正年間、明智十人衆は滅び、影一族も壊滅した。

 

仇討を果たした(と信じている)林崎甚助には弟子になりたいという男たちが後を追ってきた。

これを断った甚助の思いは小萩に飛んでいた。甚助は世話になった北畠の屋敷に戻ったのだ。

しかし屋敷は荒れ果てていた。

甚助はおばば様に出会いその隠れ家へと誘われた。

そこには具教と小萩の遺体が安置されていたのだ。

甚助にはもう何も心を寄せるものが無くなってしまった。仇も恋も。

再び甚助の弟子になりたいという男たちが現れる。

甚助は「行こう」と呼びかけた。生きるのさ、これにな。

ここに抜刀術の祖として林崎甚助の第二の人生が発したのだ。元和二年、七十二歳にて行方不明になるまでの。

 

無風道人は金の地蔵を苔丸たちの梁山泊に着くのに一か月を要してしまった。上泉信綱の一行に邪魔されてしまったのだ。

それはあの内部分裂と兵隊たちの攻撃の後だった。

遅かった。

無風は散らばる小判を見て全滅の原因を覚る。

もう少しわしのつくのが早かったら・・・すべて水の泡か・・・

しょせん、金で人を救うことはできなかったのだ。

するとわしの生き方も間違っていたことになる。

するとわしがこれまで歩んできた道は・・・なんだいったい・・・むだごとか。

無風は悔しかった。

すると苔丸が呻くのが聞こえた。小さな女の子も。

「お、おれは死なないぞ・・・」

無風は「わしはこういう奴が好きさ」とつぶやきながら手当てをしていく。

 

戦は続く。

武士と百姓という対立だけでなく僧侶と百姓という対立が戦をややこしくしていく。

そして一揆によって優勢になった百姓たちの勢いは収まらなかった。

ここで以前とは逆に百姓らの戦を収めようとした影丸たちだったがもうなすすべもなく見守るしかない。

 

かくて越前では門徒百姓と僧侶との戦いが始まりそこへ信長軍が突っ込むことで壊滅となってしまう。

これは先に浮浪者たちが内部分裂をしたところへ兵隊の攻撃によって全滅したのと同じ構図である。

 

またここで無風道人と同流の上泉信綱との決戦が行われる。

無風は鞘打ちで信綱が考える時間を与えてやったのだと言い残して去っていく。

無風の身代わりに柳生の娘が命を断たれてしまう。

 

そして物語はついに最終章に入っていく。

影丸は加賀での一揆を指導し木製の大砲で信長軍を抑えていたがそこへ本願寺顕如が降伏しようとしているという才蔵の報を得て自ら乗り込んでいく。

顕如に対し信長への降伏は許さんという影丸

影丸は「もう一度一揆を呼びかけるのだ」と言う。「戦線をたてなおし強大な全国的一揆を再編成して戦国大名を倒しその勝利のあかつきには農民の自治支配のもとで本願寺教団は発展するのだ」

顕如は「そんなことはどうでもいい。影丸、この日の来るのをどんなに待ちかねていたか」と言い放った。

顕如は重太郎だったのだ。

総ては信長の策略だった。

さすがの影丸も重太郎相手には逃げるしかない。

重太郎は何も知らず影丸明美を殺した仇と思い込み討ちとろうとしか考えていなかった。

影丸は主膳の前で捕縛されることとなる。

そして重太郎に「明美はわしの妹だ」と告げる。

「おまえとの幸せを願っていた。だがそれもだめだったらしいな」

そして「後の人生を無駄にするな」と言い残して去った。重太郎はくずおれた。

 

信長の使者としての検分役森蘭丸の到着を待ち、その日のうちに現地にて影丸の刑は執行された。

移動と時間が術者としての影丸に有利に展開してしまうのを怖れたからだ。

影丸は切り株の上に仰向けにさせられ首と四肢に鎖を巻かれた。

そして森蘭丸は耳元で影丸の声を聴く。


そして影丸は処刑された。牛によって首と四肢を引きちぎられたのである。

 

影丸の首はまたもや安土城にさらされた。

そして今度もその首からは高らかな笑い声が人々に耳に聞こえたのだ。

 

顕如の息子数如はなおも抵抗をやめず全国に檄を飛ばし各所で戦闘を繰り広げたがもはやかつての力を立て直す機を逸していた。

 

かくしてここに十一年間天下を真っ二つに割って死闘を続けた石山合戦も終わりをつげ一世紀にわたって各地で展開した一向一揆も幕を閉じたのである。

 

無風道人は生き仏となった。おばばはそれを見て「いい子じゃった」とつぶやく。

 

明智光秀(主膳)は歴史に残る本能寺の変を行い逃げ落ちて鬼吉と太郎によって討ち取られその首は百姓によって運ばれた。

 

林崎甚助は弟子たちを伴い旅する途中で重太郎と出会い声をかける。しかし重太郎は答えることなく去っていった。

 

そして無風によって命を長らえた苔丸と小さな少女は懸命に土を耕していた。

 

読了しました。

最後に作者白土三平氏の後記がある。

ここを読むと白土氏は影丸のような存在はあり得ないとしながらも決定的瞬間に個人の力が大きく全体に影響を与える場合もある、と書かれている。

つまり歴史は個人の力で動かせるものではない、と考えているのがわかる。

だからこそ影丸のような怪物によっても歴史は変わらなかったのだ。

そしてこの物語の主人公が影丸と重太郎というふたりになっているのもそれを感じさせる。

忍者という根無し草であり最下層の民ともいえる存在の影丸と城主の後継者という上級民である重太郎。そのどちらも結局なにもできないのである。

影丸はその恐るべき能力を全力で駆け抜けたのもの何もなしえなかった。重太郎は仇討ちを望みながら果たせず、愛する女性を得ながら幸福にすることも出来ずその兄を仇と思い込み追い詰め救うこともできなかった。剣豪でありながら何の力も持てなかった男なのだ。

とはいえ影丸の思いは今もなお生き続けていると私は思いたいし人間はそういうものではないだろうか。

重太郎のような存在もまたいつもあるものであり、そして影丸の言った通り残った人生を有効にすることはあるはずだ。

 

苔丸と少女が小さな力で土を耕している光景で物語は終わる。

地面は固く小さな芽がやっとでたばかりだ。

苔丸は片手片足だし少女の力はあまりにもか弱い。

無風道人もまた高い能力を持ちながら何もなしえなかった人物だがこのふたりの傷を介抱し生き延びさせたことですべて報われるのではないか。

 

読んでいて『進撃の巨人』を思わずにはいられなかった。

諌山氏が本作を読んでいない、というのは考えられない。

忍者武芸帳影丸伝』がもし読まれていなくても『進撃の巨人』の要素となって受け継がれていくのではないのだろうか。

進撃の巨人』もまた次の世代に何らかの姿になって伝えられていくのだと思う。

とはいえやはり『忍者武芸帳影丸伝』もそのまま読み継がれて欲しい。

ポーの一族』のキング・ポーの血のようにそれは濃いのである。