張飛・・・つらいなあ
ネタバレしますのでご注意を。
怪しまれ逃げ出した彭義の使者を止めたのは馬超であった。
その男は孟達へ危険を知らせる手紙を所持していた。
男を投獄し馬超は自ら彭義邸へ赴き酒を飲みながら本心を引き出したのである。
翌朝馬超は漢中王に彭義の謀叛を知らせた。
上庸では孟達が彭義の処刑を聞き及び城を抜け出し魏王の元へ降ったのだった。
玄徳は孟達の逃走を聞き劉封に孟達討伐を命じたが劉封は返り討ちに会い血路を開いて逃げ延びたが上庸の城はすでに徐晃に奪われやむなく成都に戻るしかなかった。
成都では義父玄徳が劉封の敗北の報を受け私情を捨てて処置せねばならない状況になっていた。
関羽の危機に援軍を送らずにいたこと、今回の敗北をして玄徳は軍律に合わせ処刑と命じた。
その後、重臣から助命嘆願をされ処刑中止を命じたもののすでに遅く玄徳は我が養子劉封の首を見ることになる。
魏では魏王曹丕が皇帝となる準備が着々と進められていた。
まずは献帝に対し帝位を魏王へ譲られよと追い詰め曹丕の妹である曹皇后が皇帝から離れていく。
漢室四百年の歴史を自分の代で終わらせることになる献帝は抵抗をみせたものの今更何の力もなかった。
玉璽を魏王に送ったがこれを司馬懿がとどめた。
すぐに軽々しく受け取ってはならないと言い出す。それでは魏王が力づくで奪ったと天下のそしりを受けると説明する。
曹丕も同意して玉璽を辞退した。
献帝はふたりの娘を差し出して再び玉璽を送ったが司馬懿はこれも受けてはならないという。
「天子自ら玉璽を捧げて魏王に送るまで」待てというのだ。
そしてひざまずいて大魏帝の命を待ちその日のうちに一頭のろばに乗ってわずかな旧臣を伴って田舎へと落ちていったのである。
成都では漢中王玄徳がこの事態を聞き及び衝撃を受け病の床に伏してしまう。
玄徳がかつて関羽張飛と桃園の誓いをしたのは漢朝のために生死をともにしようというものであった。漢朝を再び取り戻し天下泰平の世を作りたいがために戦い続けてきたのだ。玄徳の人生のすべてであった漢朝が滅んだのである。
翌年三月。
襄陽の漁師張嘉という者が網にかかった黄金の玉璽を漢中王へと献じた。
孔明はこれを見て「洛陽の大乱の時漢家から持ち出され久しく行方知れずとなっていた宝章」と気づく。これを持つ者がこの国の皇帝を名乗ることができる、それが今玄徳のもとにもたらされたのである。
孔明は重臣たちを伴い漢中王に面会し「今こそ皇帝の御位につく時と考えまする」と述べた。
むろん玄徳は「末代まで不忠不義の人と呼ばせたいのか」と怒り反対した。
孔明は逆賊曹丕と我が君は違いまする。皇帝のご嫡流たるあなた様が皇帝を名乗るがなぜいけませぬ、と説得するが玄徳は「その話は二度とするな」とはねつけた。
孔明たちはそれ以上一言もなく立ち去った。
しかしその日以後孔明は病と称して出仕しなくなった。
玄徳は落ち着かず見舞いへといく。
孔明はこれは気の病だと申し上げる。
「我が君は天下を平定し万代まで続く泰平の基を造れるお方と思えばこそお仕えしてきました。が、この期に至って余の俗論をおそれ一身の名分にばかりこだわってございます」
玄徳のかつての燃えるような情熱が老いて一身の無事のみが願うところなのかとつい病の床に伏したのだと孔明はいうのであった。
これを聞き玄徳は、たしかにこのままでは魏の曹丕の即位を正当なものとして認めたことになる。そうしないためにも余は皇帝を名乗ろう、と決意した。
かくして建安二十六年四月玄徳は玉璽を受けここに蜀の皇帝を天下に宣した。
皇帝となった玄徳は念願だった関羽の仇である呉に攻め入る、と宣言した。
ところがこれに趙雲が反対した。「今、呉を討つ時ではなく討つならば魏である」と。
そして孔明もまた大戦を起こす時ではないと趙雲に同意したのである。
ひとり張飛は酒浸りの日々を送っていた。
関羽の仇討ができないことが彼を苛立たせていた。家臣に暴力をふるい反感を持たれていたのである。
ついに張飛は玄徳に直々訴えることにした。
「陛下、桃園の誓いをもはやお忘れでございますか」と。
玄徳は「いつの日にか必ず呉に攻め入り関羽の恨みを晴らすぞ」と答える。
この答えに張飛は泣き伏した。「人間には寿命がございます。なにとぞ生きている間にこの恨みを晴らさせてくだされ」
この姿を見た玄徳は「よし元気なうちに関羽の仇を討とう」と立ち上がったのである。
無論孔明はじめ皆反対であった。
しかし玄徳は「関羽の仇討は男の約束としてやりたいのじゃ」と決死は揺るがなかった。
この仇討、確かに皇帝として間違いだったかもしれないがここで玄徳が愚かな仇討ちにでたからこそ『三国志』が人の心を打つのではないかと思っています。
最後まで桃園の誓いの義兄弟でありえた玄徳。そんな心意気に感銘を受けてしまうのです。
が、その直後張飛はもっとも愚かな行動に出てしまう。
関羽の弔い合戦ゆえ三日ですべてを白で整えろ、という無理難題を部下たちに命じたのである。できなければ打ち首と言われふたりの部下は怒りその夜張飛が酔いつぶれて眠りについたのを見定め寝所へ忍び入りその寝首を掻いたのである。
そして部下らはそのまま張飛の首を抱き呉へと落ちのびたのだった。
とんでもない事態だ。
フィクションならこんな間抜けな展開には絶対しないだろう。
自ら仇討ちを望んで玄徳を動かし、愚かな無理難題をふっかけて部下から首を斬られてしまい元も子もなくなった張飛。
何故「全部白で統一」などという馬鹿々々しい演出を考え出したのか。
本気ならそれまでに整えておけばいいのだ、と変な怒りがこみあげてしまう。
そんなことを怒ってもしかたない。
しかしこの暗殺が先に起こってしまっていれば玄徳も呉討伐に出向かなかっただろう。
運命のいたずらとしか言いようがない。
こうして玄徳はふたりの義弟を失ってしまったのである。
たしかに張飛が生きてこの討伐を共にできていたら・・・たらればなのだ。
そしてここで張飛の息子張苞と関羽の息子関興が参加してくる。義弟たちの子どもに涙する玄徳であった。
いったん争ったふたりだが玄徳の前で義兄弟となり先陣となって出陣する。
互いの父の仇討という意気がある二人の活躍は目覚ましく蜀軍の初戦は大勝であった。
その後も蜀軍は連戦連勝で正月を迎えた。
玄徳は皆を労い酒宴を開く。
そして多くの将が老いてこの寒さが応えるだろうと案じしかし若い関興張苞などの活躍が心強い、と談笑した。
この言葉を聞いていたのが老将黄忠だった。
雪の中、黄忠はわずかの兵を率いて呉陣へと赴いたのだ。
玄徳の言葉に触発されたのだ。
「年は老いてもまだまだ若い者には負けん」
たった十騎で呉陣へはいった黄忠はその少なさが功を奏して潘璋に迫る。一人で幾人もの兵士を斬り捨てたものの多数の矢を射かけられやっとの思いで立っているところへ関興・張苞が駆け付けた。
黄忠を救い出し陣へ戻る。玄徳は駆け寄り
「しっかりせい。朕の言葉を気にしてか」
「いえいえ、何か帝のために尽くしたくて。陛下のような高徳のお方に七十五歳のこの年までお仕えできた、これほどの幸せはありませなんだ」
黄忠は倒れた。
蜀の誇る五虎大将軍。今その三人目がこの世を去ったのである。