ねたばれします。
剣閣に郭淮孫礼の魏軍が現れ、孔明の居場所に上邽の魏軍が押し寄せてきた。
しかし孔明は兵士たちの信義を無下にすることはできないと楊儀に申し付けた。
兵士たちは孔明の思いやりに心を打たれ残って戦うと言い出す。孔明もその心を嬉しく受け取った。
こうして孔明の徳を感じて奮い立った蜀軍は襲ってきた魏軍を完膚なきまでに叩いたのである。
なんと呉が魏と和睦して蜀を討とうとしている、というのだ。孔明が出兵している今、呉に攻め込まれてしまっては蜀を防げる者はいない。
孔明は総退却を命じることとなった。
司馬懿はここでも孔明の策略を怖れ安易に追撃してはならぬと命じる。しかし張郃は孔明を恐れすぎる司馬懿に疑問を持つ。
蜀軍が城を出たという間者の知らせを受けてやっと司馬懿は偵察に向かい城が空になったのを確認して追撃を命じた。
名乗り出たのは張郃であった。
司馬懿は気性が勝ちすぎる張郃を出すのを躊躇うがしぶとく意志を示す張郃に根負けしてしまう。
追撃を始めた張郃はすぐに魏延と出会い一騎打ちとなるがすぐに魏延は逃げ出してしまう。続いては関興。これもすぐに逃げ出す。
しかしまたもや魏延が登場しそしてまた逃げ出した。
更にまた関興が。
それを繰り返すうちに木門道という高い崖で見通しのきかない場所に出てしまった。
逃げ出す魏延に怒って追いかける張郃。部下たちも張郃を止めるために追いかけていった。
その時、怪しい火が天空に昇った。
張郃の引き返そうという言葉の直後崖の上から木石がうなりをあげて落とされる。
退路を断たれた張郃軍は逃げ惑うが崖の上に立つ楊儀・馬忠率いる一万の兵が一斉に矢を射かけた。
張郃はじめ部下たちは針鼠のようになって息絶えたのである。
木門道まで追いかけてきた魏軍は落石の向こうにいるはずの張郃軍を案じた。
そこへ登場したのが孔明だった。
逃走した魏軍の兵は司馬懿に張郃の死を告げる。司馬懿ははっと気づく。
司馬懿は追撃を中止し引き揚げた。上邽に戻った司馬懿は直ちに要所に諸将を配し「ただよく守れ」と命じた。
自身は洛陽へ戻り張郃の死を奏上した。
さて漢中へ戻った孔明は魏と呉が手を組んだ気配はないという報告を受ける。
孔明が突然帰ってきたので劉禅はご不審を抱き李厳は理由もなく戻ってきた孔明がいぶかしいことだと言いふらしている、というのだ。
費褘からの説明を聞き孔明は李厳が食糧集めに難儀し遅れたら斬罪という厳しい規律に苦しみ虚偽の手紙を孔明に送ったと読んだ。
孔明自ら成都に戻って調査をした結果思った通りだったと判明。孔明は李厳の死罪を考えた。が、費褘は李厳は先帝玄徳が劉禅を託した重臣であることを思い出させる。
だが李厳の子李豊を長史(官房長)に取り立て食糧集めを任せたのである。
そして孔明はしばらく内政の拡充に力をそそいだ。
孔明は本来こちらの人なのだろう。
ここで関興が血を吐いて倒れると言う嫌な予兆が起こる。
三年後、国が安定したのを見た孔明は再び北伐を蜀帝・劉禅に申し出る。
何も起きてはいないのに何故平和を楽しまないのかと問う劉禅に孔明は先帝玄徳への恩義と誓いを申し上げた。
他の重臣が天文を観て今魏を討つ時ではないと言っても孔明の決意は揺るがなかった。
まずは漢中で勢ぞろいしその総勢三十四万。
しかしここで訃報が届く。関興が病死したのだ。
孔明にとって欠かせぬ将だった。
一方魏でも孔明が祁山に出現と報じられ騒然となる。
魏帝は司馬懿を呼び指揮を命じた。
司馬懿は四十五万の精鋭を率いて出陣した。
両軍は渭水を挟んで対峙。
司馬懿は孔明が多数の陣屋を築いたことで魏を討つまでは蜀には帰らぬという孔明の覚悟を見た。
これに対し司馬懿もまた本陣の後ろに城を築き五万の工兵隊を使い渭水の上流に浮橋をかける。
これに対抗するように孔明は百余隻の筏を造らせた。そして松柴と草束を集める。
これを知った司馬懿は「孔明は本気で北原を攻める気はない」と見た。
おそらく司馬懿が作らせた浮き橋を焼き我が後方をかき乱すつもりだろう。
まさに作戦の読み比べであった。
これを見た魏延は怪しく思い様子を探ることにする。
がここで三方を取り囲まれ魏延・馬岱軍は次々と河に追い込まれて溺死した。
それに気づいた呉懿軍がかけつけたものの半分の兵を失ってしまったのだ。
その頃呉班軍は大量の筏を流し始めていた。
しかしここには張虎・楽綝が射手二千を伏せており流れてきた筏の前に丸木を置くことで動きを止め蜀軍を標的としたのだ。
さらに魏の本陣を伺う王平・張嶷の先手軍は浮橋に火の手が上がるのを待っていたが一向にその様子がない。
そこへ作戦が失敗し味方の大敗を報じ孔明から引き揚げよという指令が出たという伝令が届く。そこにも魏の伏兵がおり王平・張嶷軍は逃げきれず討死した者はおびただしかった。
蜀軍の死者は一万を越えた。
孔明がここまで計を読み取られたのは初めてのことだった。
蜀陣。
六たび祁山に立ち一度も長安に迫ることができない。いつも兵を疲れさせて引き揚げるだけではないか。
わしは常に子午谷を通って長安に攻め込むべきだと進言しているが危険が大きすぎると言って受け入れられぬ。
魏延の憤懣は激しいものだった。
楊儀はこの魏延の陰口を孔明に伝えるが孔明は「わかっている」と言うのみだった。
人一倍軍紀に厳しい丞相が何故放置なされます、との問いに孔明は目を伏せる。
蜀の将は次々と死に今用いるに足る将がどれほど蜀にいるか、余の胸中も察してくれ。
楊儀はわかりましたというしかなかった。
そんな折、成都から費褘が訪れた。
孔明は費褘に大役を頼む。
呉の孫権に書簡を渡し呉を動かしてもらいたい、というのだ。
さらに孫権はなんと魏延が必ず災いをなすであろうと忠告したのだ。
そして案じる費褘に「わしに考えはある」と伝えた。
蜀にはそれほど人材がなくなっていたのだ。
だがこの後日、今度は司馬懿が仕掛けた虚偽の投降者を孔明が見破り逆に魏軍に襲い掛かる。
やはり孔明は恐ろしい、と司馬懿は再び陣に閉じこもりひたすら守りを固め蜀軍の食糧難を待つ作戦に切り替えたのである。