ガエル記

散策

『ソフィーの選択』毒親に育てられた女性の人生を描く

以下、ネタバレします。

 

 

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TVで『ソフィーの選択』が放送されていたのを見て上にリンクした自分の記事を思い出しました。

ネットで簡単に見られる感想の多くは「残酷なナチスによって自分の子のどちらかを殺す選択をさせられる悲劇の女性」という部分に焦点をあてていますが私は問題はそこではなくソフィーという女性が優秀なのにもかかわらず父親の傲慢で無慈悲な言葉によって自分では何も「選択できない」もしくは「間違った選択をしてしまう」女性になってしまった悲劇を描きたものではないかと感じています。

思い出すのは多くのナチス映画ではなく山岸凉子『天人唐草』です。この作品で描かれる響子も家父長制そのままの父親にその自我を押しつぶされていく女性なのです。

 

ところがこの映画を観た人はどうしても「ナチスの暴力」だけに打ちのめされてしまうのです。「自分の二人の子の殺す方を選ばせる」という最も惨い事態を見せられるのですから当然と言えば当然です。これはソフィーの肉体にではなく精神を破壊する暴力です。

だけどソフィーはその以前もずっと横暴な父親の言動で精神的暴力を受け続けてきた女性でもありました。

そしてこの作品の語り手である主人公が出会った当時のソフィーもまた恋人である男に絶えず肉体的にも(腕を折られたり)精神的にも暴力を受け続けるのです。

これらの暴力についてはなぜか感想が書かれていないのはナチスの暴力があまりにも強烈だからでしょう。

しかし「ナチスの暴力」が無くなった現在でも父親(母親もですが)や恋人・夫からの暴力を受け続ける女性は多くいます。それは「ナチスほどではない」と言って見過ごすわけにはいかないはずです。男性の被害もそのまま当てはめて考えてください。

 

さて、つまりソフィーという女性はその人生のすべてで暴力を受け続け最期も男性との心中というこれも思うに精神的暴力によって死を選ばされます。

 

そのすべては今なら「毒親」という名称のついた精神的暴力をふるう父親によって運命づけられたとこの作品は描いているのではないでしょうか。

ソフィーの選択』は今もなお「ナチス映画」にひとくくりされていますがその場面はこの映画の中の一部分です。

むしろ「教育問題映画」なのか「暴力問題映画」というカテゴリに収めておくべきなのではないでしょうか。

 

スティーヴン・キングの『ゴールデンボーイ』はナチス映画なのでしょうか。

ナチスは色々な作品に使われます。