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散策

『史記』横山光輝 ② 再読 第2話「臥薪嘗胆」第3話「呉の滅亡」

以前も書いたかもですが不思議な表紙絵です。臥薪と嘗胆を描いていますね。

 

 

 

ネタバレします。

 

 

 

冒頭に「呉と越は黄河流域の中央から離れていたため南方の蛮地と見られていた」と書かれている。

三国志』で妙に孫権の呉が仲間外れ的なのはそのせいだったのかなと思ったりする。

 

さらに蛮地に存在する呉と越は両国とも中央に躍り出たい気持ちが強く仲が悪かったのである。「呉越」というと仲が悪い代名詞でもある。

 

伍子胥は闔廬に「まずは越を討つべき」と進言した。

闔廬は越の王が死去した機を狙い出兵するが越の重臣范蠡がとんでもない作戦を実行する。

死刑が決まった重罪人を前にして「呉軍の目前で自死すれば家族の面倒を見てやる」と約束したのだ。

重罪人たちはこぞって呉軍の目前に出ては剣で自ら首を切って死んでいった。

あまりのことに驚き見入っていた呉軍の兵士たちはその間に越軍に包囲され総攻撃をかけられた。

慌てふためく呉軍の中で闔廬は足に矢を受けこの傷がもとで死んでしまうのだ。

伍子胥は長男の夫差を世継ぎに推し夫差は感謝し呉の半分を伍子胥に渡すと言ったが伍子胥は辞退し「それよりも呉を天下の覇者としてください」と頼む。夫差は誓った。

 

夫差は父の仇を討つ気持ちを忘れぬために寝床に薪を敷かせてその上で寝た。

これが「臥薪」の由来である。

軍事訓練を強化し父の仇を討ち父の遺志を継いで天下の覇者にならんとした。

越王・句践はこの様子を見て、范蠡の反対を押し切って出陣した。だが日ごろから軍事訓練を強化していた呉軍は強く越軍は壊滅的となり句践は山に逃げ込むこととなる。

句践は重臣范蠡に助言を求めた。

范蠡は大夫文種を使者とし「句践を下僕にする」という条件で和議を進めた。

 

この使者に伍子胥は語気を荒くして反対し夫差もこれに同意した。

が、文種は賄賂を使って呉の重臣を引きこみもう一度和議を試みる。

むろん伍子胥は再び猛反対するが今度は重臣の口添えがあり夫差は仇を許すことで寛大さを示すという口車に乗ってしまった。

こうして夫差は伍子胥の助言をはねつけたのである。

 

越王句践は下僕の仕事を甘んじて受け、その後范蠡が代わりに人質となって句践は帰国を許される。これも賄賂によってだった。

帰国した句践はなおも野良仕事に従事し民と苦労を分かち合う。人民は句践を尊敬した。

句践は小屋に干した苦い肝を吊るし日夜それを舐めてこの恥辱を噛みしめた。

これが「嘗胆」である。

 

「臥薪嘗胆」は敵国同士の故事成語だったのだ。

 

それから二年後、范蠡も帰国を許された。うわーこれではダメではないか。

 

范蠡・文種によって越は国力を取り戻していく。

 

夫差が呉王となって七年目、斉へ出陣の命を出す。

伍子胥は繰り返し「斉など手の皮膚病のようなもの、だが越は内臓の病。まずは越を討つことが先決です」と進言する。

しかし夫差はもう伍子胥の言いなりにはならなかった。

呉軍は斉軍に大勝利し夫差は喜ぶが伍子胥は「諸侯間の争いに足を突っ込んだという事ですぞ」と激怒する。

夫差は何事もずけずけとものをいう伍子胥に辟易していた。

 

しかし伍子胥の考えは正しかった。

越はこの間にも確実に力を蓄えあえて呉に「凶作で困っている。食料を貸して欲しい」と依頼してきた。夫差はこれにも喜んで対応した。

一方覇者となろうと諸侯間の争いに首を突っ込み続け兵も国民も疲れ果てていく。

伍子胥が諫言してももう夫差には聞く耳がなかった。

尚且つ夫差は伍子胥に「斉に行って降伏を勧めて参れ」と命じる。

伍子胥は「名門の斉が南方の蛮族である呉に降伏するわけがない」と考える。

そして呉の滅亡を感じた伍子胥は息子を伴って斉へ赴き息子を大夫に預けて帰国した。むろん斉が呉の臣下になるなどありえなかった。

 

これを知った夫差は怒り伍子胥に剣を送った。自決せよの意味である。

伍子胥は怒る。

「呉がここまでになったのも夫差が王位につけたのも私がいたからだ。呉の半分をくれようとしたがそれも断った。その私をつまらぬ奸臣の言葉で殺そうとする」

そして傍にいた家来に言った。

「私の墓には梓を植えよ。呉王の柩の木材にするのだ。そしてわしの目は都の東門に欠けておけ。越が呉を攻め滅ぼすのを見るためだ」

 

こうして伍子胥は自決した。

 

これを聞いた夫差は怒り伍子胥の遺体を馬の革袋に入れて長江に投げ捨てさせたのであった。

 

 

 

 

 

伍子胥が自決して三年後から始まる。

 

越王は范蠡から呉と越の行く末を説かれていた。

呉は斉の内乱にも首を突っ込み反撃をくらって呉の精鋭を失っていた。それでも夫差は死んだ伍子胥に反抗するかのように覇者にならんと意気込んでいる。また宰相は賄賂をもらうことに目の色を変え国政など考えていない。

呉の国力の低下は時間の問題だ。

越は呉に警戒を抱かせぬようにひたすら恭順し機会を待つ。呉王が国を留守にした時が攻め入る時であると。

 

その機会は早く訪れた。

翌年呉王夫差は諸侯と会盟するために呉軍の主力を引き連れ北方の黄地へ出向いたのだ。

そこで覇を唱えるつもりだった。

覇者とは諸侯同盟を作り共同で外敵に当たる、その同盟の盟主に選ばれた人物をいった。

ここで「牛耳る」の語源が説明される。

生贄の牛の左の耳を切り取り皿に受けその牛の血で盟約分記しその血をすすり盟所を読み上げるのである。そして生贄の牛を方形の穴に入れ盟所をその上に置いて埋めるのだ。

この血を啜った者が覇者でありこれを「牛耳を執る」というのである。

 

越はこの機を待っていた。

呉王は主力部隊を引き連れ黄地へ向かった。

呉には太子友とわずかの留守部隊が残るのみ。越に対してまったく警戒心を持っていなかったのだ。

句践は五万の兵を動員し呉に侵入した。

越軍は呉軍を打ち破り太子友を捕らえた。

そして翌日には東門から呉都に攻め入った。

伍子胥が「わしの目をくりぬいてかけておけ。この目で呉の末路を見てやる」といった門である。

 

黄地ではこの報が夫差に届けられたがなんとしてでも覇者になりたい夫差は口外を禁じて居残った。

がこの噂は諸侯の知るところとなり越に敗北した呉を覇者に望む者はいなかった。

覇者になれぬとわかると夫差は帰国を決めたが腹の虫は収まらない。

 

帰国した夫差は荒れ果てた呉都を見る。

夫差は怒りただちに越への進撃を命じるが宰相は兵糧もなく財宝すべて奪われ越より先に飢えと戦うことになると答える。夫差はあきれ果て「ではどうすればいいのじゃ」と叫ぶと宰相は「今は和議の道しかありませぬ」と答える。

 

やむなく呉は越に和議の申し込みを送る。

ここで越はこの和議を受けた。

 

が夫差はそれでも覇者の夢をあきらめず国の再建をしながら出兵も繰り返した。

越は豊かになる一方、呉の民は疲弊していった。

そして四年後、越は呉に出陣。弱り切った呉軍を撃破していく。

三年間戦争は続きついに呉は首都を明け渡す。

夫差は呉都を脱出。

再び和議を申し入れた。

が、二十二年前夫差が句践を許したことから越は復興した。

これは伍子胥の反対を夫差が聞かなかったことから生じたのだ。これを越が繰り返してはならないと范蠡は進言する。

 

和議の死者は追い出された。

しかし句践も以前許されたことが気がかりでせめて夫差の命だけでも救ってやりたいと言い出す。小島に流して百戸の長にするくらいなら安心できると。

范蠡もそれには同意した。

 

が、これを聞いた夫差は自決を選んだ。

そして伍子胥の先見の明を思い出して後悔した。

だがあの世に行って伍子胥にあわせる顔がないとして自分の顔を布で包んで欲しいと言い残した。

 

こうして呉は滅亡した。

句践は夫差を哀れに思って手厚く葬った。

そして夫差を破滅に導いた宰相の首は晒しものにしたのだった。

 

呉を併呑した越は中央に進出し覇を唱えた。

だが間もなく中国大陸は激動の戦国時代に突入していくのである。

 

ひたすら伍子胥の激情がかっこいい。

「我が目をくりぬいて門にかけよ。呉の滅亡をこの目で見るために」