ガエル記

散策

『史記』横山光輝 ③ 再読 第1話「因習打破」 第2話「改革者の悲劇」

なんか恐ろし気な表紙ですが読むと想像以上に怖ろしい、はずです。

こんなことあるか~???

 

 

ネタバレします。

春秋時代、大国・晋であh六人の大夫の権力闘争が起こり、魏・韓・趙の三氏が勝ち、晋を三分した。この頃からを‶戦国時代”という。

魏は生き残りを賭けて能力ある人材を求めた。その者たちに与える領地はないために俸禄をもって召し抱える方法をとった。官僚である。

 

魏の文侯によって召し抱えられた官僚のひとり・西門豹は鄴の県令に任命される。

黄河の氾濫と地元有力者のあくどい搾取によって荒廃した河内地方は諸国との国境を接する重要な地であるとして西門豹はその地の改革に向かったのである。

西門豹の役目はその地の農耕を盛んにし悪徳有力者の排除であった。

 

任地に赴いた西門豹は開墾のため黄河から用水路を引く計画を立てるが農民は黄河の神を恐れて尻込みするのだ。

聞くとその地では毎年河の神に嫁を差し出す儀式のために数百万銭という大金が徴収され儀式には二十万銭使い残りは三老と巫女と役人が山分けするのだという。

そしてその儀式では巫女が村々から選んだ美しい娘が生贄となるのだ。

 

西門豹はこの悪い因習を断ち切らねば用水路を作ることなど無理だと判じた。

 

さて儀式の日となり西門豹は河の神の花嫁となる美しい娘を見て「なに、これが美人だと?」と言い大巫に「河の神に伝えに行ってくれ。もっと良い娘を送りますからしばらくお待ちくださいとな」

そして大巫を河の神にお送りせよ、と命じて老巫女を黄河に放らせた。

「おかしいのう。いっこうに戻って参らぬ」と西門豹は大巫の弟子たちを次々と迎えに行かせた。

それでも話がまとまらないようだと言って次に三老を放らせる。

これも戻ってこないとして西門豹は役人たちに声をかけた。

役人たちはひれ伏して許しを請うた。

日が暮れ西門豹は河の神は客を歓迎して帰さぬようだ、皆もう帰ってよい、と伝えた。

鄴の役人も村人たちも度肝を抜かれその後誰も河の神に嫁を差し出そうとは言わなくなった。

 

こうして西門豹は迷信を一掃し十二本の用水路の大事業にかかる。

「なんで用水路など造るんじゃ。今のままで充分食べていけるがのう」と村人たちは嫌がったがお上に逆らうことはできない。ただちに県民たちは動員され工事が始められた。それでも不平の声はやまなかった。

しかし西門豹は「不平を言う奴には言わしておけ。その者たちには先を見通す目がない。その者たちに政策をわからせる必要もない。結果が彼らのためになればよいのだ」とした。

「わしのこの仕事が人々に感謝されるのは百年後かもしれぬ。でもきっと評価されよう」

やがて鄴の農業は大きく発展した。

魏の国力は増大し強国となった。

紀元前403年、周王朝は魏を認め諸侯の列に加えた。

 

ふむう。

帚木蓬生『水神』はここから生まれたのだと知った。

明記はされていないが紀元前400年以上も前にこうしたリアリストが存在し尊敬よりも結果を求めたという気概に感動する。

あの曹操も「西門豹祠近くにわしの墓を作れ」と遺言していたとか。あの曹操が、というだけで価値がわかる。

 

戦国時代初期。

孫子と並び称される兵法家がいた。

呉起である。

兵法書呉子」を記し「孫・呉の兵法」と高く評価された。

 

呉起の家は裕福だったのだが諸国を旅して仕官の口を求めても見つからず財産を使い果たして故郷・衛に帰ってきたのだった。

母はこれを許したが町の人々は呉起を笑い飛ばした。

呉起はこの屈辱を耐えきれず数人を切り殺してしまった。

「世に出るにはもっと学問せねば」(おいおい、勉強していなかったのか)

呉起は曾申の門を叩き儒学を学んだ。

ある日呉起は使者から母が亡くなったと知る。だが故郷には戻れず全財産を使者に預け弔いを頼む。

これが儒学者の曾申の知るところとなり破門されてしまった。儒学は「孝」を説いているのだ。

呉起はやむなく魯へと向かう。魯は孔子の生まれた土地だが小国であった。

呉起はここで兵法学者の門を叩く。

師匠は呉起の勤勉ぶりに感心し魯の元公の役人に推薦してくれたのだ。

呉起は懸命に働いたが信任が厚くなるほど呉起の評判は悪くなっていく。

人の妬みを買ったのである。

 

ううむ。この呉起さん、悪い人ではないのだろうがどうしても悪い方向へ行ってしまう星のもとに生まれてしまったのか。

やがて魯の国は強国・斉に攻め入られるがここで呉起は兵法を学んでいたことを買われ援軍の将に抜擢される。

ところが娶っていた妻が斉の女性だったためにまたもや疎まれてしまう。

呉起はやむなく妻を離縁するが、そうしたらしたで「出世のために妻と別れるような男だ」(確かに)と陰口をたたかれてしまうのだ。

将軍となり斉の大軍を蹴散らし意気揚々と凱旋した呉起だが「故郷で三十人も殺した」「母の葬儀にも出ず曾申様に破門された」「斉のような強国に勝てば他の強国からも警戒される」「兄弟国の衛の国の犯罪者を魯が重用すれば義理が立たない」と噂されついに呉起は魯の元公から解雇されたのである。

 

いったい呉起どうしてこんな仕打ちにあうのか。

 

呉起は次の仕官を求めて魏へ向かう。

魏では呉起の戦の才能を買われ将軍として迎えられた。

そして西河の秦の城邑を攻略せよ、と命じられる。

呉起は将軍ながら普通の兵士のスタイルで出陣し食べ物も持参した。

最下級の兵士と同じ生活をして労苦を分かち合った。

兵士の士気は高まり秦の西河の五城邑すべてを奪取した。

そればかりか北辺の中山を討ち韓・趙を服従させ魏を列強の一国にのしあげさせたのである。

ここで有名なエピソードがある。

呉起将軍はある兵士の足が腫れあがっているのを見た。自らその腫物を切って口で膿を吸い出したのである。兵士たちはそれを見て涙した。

その話を聞いた兵士の母親は激しく泣いた。その女の夫は先年同じように呉起将軍に膿を吸い出してもらい感激して戦場で討ち死にしたという。息子もまた同じように戦うであろうと泣いたのだ」

 

これなら呉起将軍もついに栄華を極め幸福になるかと思いきや。

文侯によって呉起は西河の太守となり秦・韓に備えさせた。

前387年名君魏の文侯が没し、その子武侯が後を継いだが呉起はそのまま西河の太守に据え置かれた。

行政手腕にも優れた呉起はみごとに西河を治め名は高まる一方だった。

人々はいずれ呉起が宰相になるだろうと噂した。

だが、世間の予感に反して武侯が選んだ新宰相は田文だった。

 

しかしここで呉起が田文に問いかけ田文が答えのは

「あなたの功績はあまりにも大きい。それに比べ私には何もない。また武侯はまだ若く重臣たちの支持も得てはいない。私とあなたとどちらが国がまとまるでしょうか」

呉起は納得したのだった。

 

が、その田文が病死し次の宰相となった公叔は呉起を疎んじた。そして生真面目な呉起を罠にかけ魏を去るように仕向けたのである。

 

次に呉起は楚に向かった。

楚でも呉起は重用され宰相となる。

ここで呉起門閥政治を廃止し法によって国を治めることを悼王に進言する。

そして領地は子孫の三世まででそれ以後は国に返すという案を出した。

国庫を豊かにするための発案だった。

首都に集まっている特権階級の物を強制的に地方に分散させ地域振興をはかった。

さらに門閥によって無計画に置かれた無用無能の官吏と不要の官職を整理し浮いた費用を軍備の充実にあてた。

都でのんびり遊んで暮らしていた特権階級からは大変な恨みを買う計画であった。

 

呉起の起用で楚は国力を増し諸国に攻め入り天下を震え上がらせるほどの強大国となったのだ。

この大戦果をあげた前381年悼王は死去。

各地に散らばっていた貴族たちは続々と葬儀にかけつけた。

呉起にとっては大きな後ろ盾を失ったのである。

この時とばかり、特権を奪われていた貴族、解雇された役人たちが反乱をおこした。

呉起を殺せ」「六年間の恨みを晴らせ」

 

この報は呉起に届いた。

呉起は身を隠そうとして悼王の遺体を安置している霊堂に走った。

「楚の法では王の遺体に武器を触れた者は重罪で罪は三族におよぶ」

呉起は王の遺体の前に立ちはだかった。

「楚の法を忘れたか」

しかし貴族たちは「法は国王の遺体に触れてはならぬというものだ。お前の体に触れることではない」として兵たちに矢を射るよう命じた。

前にも書いた気がするがこの場面スローモーションもしくはストップモーションで映像が浮かぶ。

横山光輝氏としては非常にエモーショナルな描写である。

艶やかな場面だ。

大きな絵画にして飾りたい。

 

後継者の粛王は悼王の遺体に矢をあてた者を死刑にし連座した一族も皆殺しとしたその数七十余家にのぼったという。

だが楚は再び門閥体制に逆戻りした。

呉起の改革は古池に一石を投じて少し波紋を広げただけで終わったのである。

 

正論マンの行く末ということだったのかなあ。

呉起は生涯正論ばかりの人間だったのだろう。

たとえ罰されても母の葬儀に走る、たとえ出世しなくとも妻と添い遂げるということは馬鹿々々しくてできなかった呉起

国を強くするためなら何でもやるということと同じだったのだなあ。