
孫武は良いんだけど孫臏がねえ。
心痛む。
ネタバレです。
春秋時代末期と戦国時代にかけてふたりの優れた兵法家がいた。孫武とその後裔の孫臏である。どちらも兵法書を残したため不朽の兵法書『孫子』はどちらの書かと諸説がある。
現代ではどうやら孫武のものであろうという意見が有力であるが史記ではどちらの書か明記されていない。
春秋末期
呉王闔廬の時代。闔廬は孫武の兵法書を読み感心し斉から招いた。
闔廬は孫武に兵士の調練のやり方を見せてもらいたいと希望しその兵士として宮中の美女百八十人を集めた。
孫武は美女を二組に分け呉王の寵姫ふたりを隊長とした。
孫武は真剣に美女たちに矛を持たせて太鼓の合図にあわせて右左後ろを向くように指導する。
そして刑罰に使う斧を持ち別の兵士に太鼓を叩かせる。
「よし右」
しかし美女たちはそれがおかしかったらしく笑いだし命令を聞かない。
孫武は呉王に「これは命令を理解させなかった将たる私のせいです」と言ってやり方をくどいほど言い聞かせた。
太鼓を叩かせ「左」と命じるがまたも美女たちは身をよじって笑い転げる。
孫武は今度は私ではなく隊長の責任であるとして呉王の寵姫ふたりを処刑する、と言ったのである。
呉王は慌てふためいたが孫武は「将が軍にある時は君命たりともお受けできないことがありまする」として寵姫ふたりを斧で切り殺した。
孫武は別の美女に隊長になることを命じ再び太鼓に合わせ動作を命じた。
今度は笑い出す者はなく命令は整然と行われた。
孫武は呉王に向き直り「これで調練を終わります」と述べた。
だがこれで呉王は孫武の才能を認め改めて呉の将軍として迎えた。
孫武を迎えた呉は強国にのし上がった。
西の強国・楚、北は斉・晋を脅かした。これすべて孫武の力であった。
「その疾きこと風の如く
その徐かなること林の如く
侵掠すること火の如く
動かざること山の如し」
それから百余年
孫臏が登場する。
孫臏は孫武の末裔である。孫臏はもともと「孫濱」だった。
孫濱は若い頃から兵法を学び同門に龐涓がいた。
龐涓も秀才だったが常に自分よりも上にいる孫濱に対し憎悪を持つようになる。
その後、龐涓は義に仕え、孫濱は斉に仕えた。
しかし龐涓の頭から孫濱のことだけはこびついて離れなかったのである。
「今のうちに殺していた方が将来のためになる」
龐涓は旧友として斉にいる孫濱に「両国の関係が上手くいくように話し合いたい。遊びがてらにきてくださらぬか」と手紙を送った。
孫濱は龐涓の友情を疑うこともなく魏へと向かい連日宴会でもてなされた。
ところがある日龐涓の留守中に兵士がなだれ込んできて孫濱を捕らえたのだ。
ここで孫濱はやっと龐涓の罠だったと気づく。
孫濱を斉の間者として殺そうとした龐涓だったが本人を前にして心が怯み王に向かって「竹馬の友のよしみで打ち首だけはお許しください」と言ってしまう。
王はやむなく孫濱の打ち首を取りやめ両足切断の刑としたのだった。
ひえええ。いや何であっても酷いが両足切断なんてよく考えるなあ。
孫濱は両足切断の上額に犯罪者としての刺青をされた。
龐涓は友人としての罪悪感を消すために孫濱の生活の面倒をみた。
ここで孫濱は龐涓に名前を変えると言い出す。
「孫濱の濱を臏(膝頭の骨)にしようと思う」
龐涓は笑って受け止めたが孫臏は心の中で激しい怒りを覚えていたのだ。
孫臏は酒の女にうつつをぬかしたように見せかけ龐涓が監視の目をつけなくなるのを待った。
二年後斉から田忌将軍が魏を訪問しているとの報が入る。
孫臏は世話をしている女性に手紙を託した。すでに監視の目は解かれていたので女は簡単に屋敷をでて田忌将軍に手紙を渡した。
手紙を読み事態を知った田忌は女に「我等は二十五日に帰国するつもりだ」と伝えた。
孫臏は田忌の言葉の意味を察した。前夜二人の男が屋敷に忍び込み孫臏を背負って連れ出し帰国の馬車の荷物の中に入れ魏を出立したのである。

すごく立派な車椅子だ。
ほ、ほんとなのかな。孔明も似たようなのに乗ってたしなあ。
こうして孫臏は田忌将軍が大好きな賭け事で勝つ方法を教えた。
田忌は王も巻き込んで賭け事に勝つ。ここで田忌は王に勝った理由は孫臏の作戦だと教えた。
(田忌将軍、めちゃくちゃ良い人だ)
斉の威王は孫臏に会いその才能に感心し軍師として迎えたのである。
それから間もなく魏は龐涓を総大将にして趙に攻め入った。
弱小国の趙は斉に救援を求めてきた。斉の威王は田忌を将軍として孫臏を軍師として救援に向かわせる。
ここで孫臏は直接趙に行って援けるのではなく手薄になっている魏へ向かえば魏は慌てて帰国することになる。わが軍は一挙にして趙を助け魏軍を疲れさせることができます、と田忌将軍を説く。
果たして待ち構えた斉軍は昼夜走り続けて疲弊した魏軍を迎え撃ち勝利した。
後にこの作戦が孫臏のものと知った龐涓は歯ぎしりをしたのだった。「殺しておくべきだった」
それから十三年が過ぎた。
天下の情勢は大きく変わっていた。
魏と趙は同盟を結び(おいおい)斉の同盟国・韓を攻めた。
斉は韓を救うため再び田忌将軍と孫臏を送り出した。
田忌は今度も魏を攻めようと考えた。孫臏も同意したが今度は龐涓も失敗はしないはずと様子を見て臨機応変に戦うことを進言した。
龐涓は斉が魏に入ったと聞き喜んだ。今回は魏にも精鋭を残しており自らも引き返して挟撃するという計画を立てていたのだ。龐涓は勝利を確信していた。
田忌将軍はこの報を受け孫臏に問うた。孫臏は「逃げるしかありますまい」と答える。
驚く田忌に「兵法は敵の力を逆用して勝つという方法もございます」と返した。
「利につられて百里を負ってくる兵は将を失い、五十里ならば兵の半ばを失う」
こうして斉軍は陣払いを始めた。
これを聞いた龐涓はますます喜び追撃を開始する。戦いにおいて追撃戦は絶対に有利なのである。
孫臏は「龐涓は魏の兵は命知らずが多いが斉軍は腰抜けだと思っている」と田忌将軍にあえて伝える。
田忌は怒るが孫臏はその思い込みを逆手に取るのですという。
まずわが軍の竈の数をこのままにして去り、翌日は半分に三日目にはその半数にしてください、と提言した。
「それを見た龐涓は斉兵は腰抜けが多いので脱走兵が増えていると思い込むでしょう」
(孔明がこの逆をやったあれですな)
田忌将軍はよくわからないまま孫臏の言うとおりに事を運んだ。
果たして龐涓は斉兵は半数の兵が脱走したという証拠だ、と考え追撃を速めていく。
しかし追撃を速めるのは歩兵がついてこれないことになる。
だが機を逃すわけにはいかぬと「明日になればもっと脱走兵が増えよう。騎馬隊だけでも打撃を与えられる」として歩兵は後からついてこさせ騎馬隊だけを引き連れ疾風のように馬を駆った。
馬陵道渓谷に辿り着いた孫臏は田忌将軍に「逃げるのはここまでです」と告げる。「この渓谷は道が狭く両側は険しい斜面、伏兵をするのに絶好の場所です」
さらに昨日の半数の竈をつくらせた。
龐涓は夕暮れにはここに到着するだろう。
兵士たちの一隊に夕暮れ前に竈に火をつけ渓谷に身を隠すよう命じた。
他の兵士には木を切って道を塞がせ大木の幹を削らせそこに大きく「龐涓この樹の下に死せん」と記させた。
夕暮れ計算通りに龐涓は渓谷の入り口に到着した。
竈を見て半数になったのを知り火が残っているのを見て斉軍が近いのを感じて龐涓は追撃を命じた。
陽が沈み隘路を進むことに危険を述べた者もいたが龐涓は「目前の勝機を見逃すのか」と叱咤し馬を進めたのである。
道を塞いでいた木を取り除かせ大木に何やら書かれているのに気づく。
周囲はもう暗闇。
火を差し伸べてその文字を読む。
「龐涓この樹の下に死せん」
ここで龐涓はすべて罠だったと気づく。
「退けっ」
しかし時すでに遅く数戦・数万本の矢が雨のように降り注いだ。
朝日が昇り孫臏は横たわる龐涓の側へと馬車を進めた。
龐涓は数えきれないほどの矢を受けて倒れていた。
「わしも無残な仕打ちをされたが龐涓の姿もまた無惨」
斉軍は勢いに乗じて魏軍を徹底的に打ち破り魏の太子・申を捕らえて意気揚々と凱旋した。この合戦で孫臏の名は一躍天下に知れ渡った。
だがその後、孫臏は戦いには出ずひたすら兵法書を書き続けたのだ。
彼を知り
己を知れば
百戦して
殆からず
孫臏もまた『史記』の中で特別に忘れられない人物です。
何の落ち度もないのに両足を切断されてしまうという惨たらしさに司馬遷も共感したのではないでしょうか。
しかもまだ若い頃だったでしょう。
孫武の末裔で優れた兵法家だったというのも物語性を感じます。