
肩にかけているだけで痛そうであります。
ネタバレします。

戦国時代末期、秦は商鞅の強国の策が実り天下を狙って他国を侵攻し始めた。
特に毛翔・白起の率いる秦軍の行くところ敵はなく紀元前293年には韓・魏連合軍を伊闕に破り二十四万の首を奪り大地を血の海に変えた。
その後も白起の秦軍は留まることなく大陸を侵略し続けたのである。
趙の恵文王の時代(在位前298~266)
恵文王は秦からの使者によってとんでもない要求をされてしまう。
それは「恵文王様は楚より天下の名玉でできた‶和氏の璧(かしのへき)”を手に入れられたのこと。秦の昭王はその‶和氏の璧”と秦の十五城とを交換したいと申しております。いかがでしょうか」というものであった。
強大国秦からこのような要求をされた趙の恵文王の心境は如何に。
まずはその璧について記してみよう。

ドーナツではないが何故真ん中に大きく穴を開けているのだろうか。
高価な宝物である玉をくりぬいてしまうのもすごいしこのように見事にズレもない輪を作り上げるのはとんでもない技術が必要だっただろう。この璧に美しい紐を通して飾りにしている貴人の姿はよく見るところである。
春秋時代、楚に姓は「卞」名は「和」という者がいた。卞和(べんか)は山中で名玉の原石を見つけ楚の厲王に献上したが王はその原石が名玉かどうか判らず鑑定者に見せた。鑑定者も判断できなかったため王は「恩賞を狙うたかり者」として足切りの刑にしたのだった。
卞和は片足を失ったが厲王が死んだ後後継者の武王にも再びその原石を献上した。
が、武王も鑑定者もただの石くれと鑑定し卞和は残る片足を切断されてしまったのだ。
やがて武王も死に文王が即位した。
卞和は原石を抱いて山中で泣き続けた。
この話を聞いた文王は「どのような理由で泣き続けているのか聞いて参れ」と家臣に命じた。
吉兆凶兆を気にする時代である。即位したばかりの文王は気になって山中に人を行かせたのであった。
卞和は理由を話した。両足を失ったもののお祝いに文王に献上したいのだがまたしてもわかってもらえなかったらと悲しくなったのだと。
家臣は本当か嘘かは磨かせてみればわかるだろうとして卞和を連れて宮殿へ戻った。

文王は「まさに天下に二つとない名玉じゃ」と感嘆し我らの不明を詫び多大な恩賞を授けたばかりでなくその名玉に卞和の名を取って‶和氏の璧”と名付けたのであった。
さて秦王はこの名玉を欲して趙の恵文王に取引を持ち掛けたわけだ。
家臣は喧々囂々。
「騙されるだけだ」「趙の滅亡を考えよ」「取引をした方が良い」「秦は虎狼の国だ」そしてこのような難しい使者を誰にするのかということになり家臣たちは黙り込んだ。
その時一人の宦官が我が食客の藺相如が適任ではないかと言い出す。
藺相如はかつてその宦官が燕に逃亡しようとした時に的確に人間関係を判断して事を丸く収めた人物だと説明した。
恵文王もそれを思い出し早速藺相如に参内させ質問をしてその才能を確かめた。
藺相如は「秦王が城を渡さぬのなら璧を完うして趙に帰ります」と言った。
現在では完全無欠のことを「完璧」というがその文字は「璧を完う(まっとう)して帰らん」から生まれた。(完璧の璧が壁ではないことにご注目ください)
そしてきわめて高価な物を「連城の値」というようになった。この連城は十五城の価値があるという意味ね。
藺相如は黄河を渡って秦へ向かった。
秦は四方を大自然の要害に守られた強国である。
秦の昭王は藺相如から‶和氏の璧”を渡されるとすぐに手に掴み次々と周囲の女たちに手渡して喜んだ。
十五城の話をまったく持ち出されないことを案じた藺相如は「実はその璧に傷があります」と嘘を言いながら王に近寄り璧に手をかけると素早く奪い取ってしまう。
藺相如は壁を持って立ちこれまでの経緯をとうとうと語った。
「私は趙の重臣たちが反対するのを抑え、秦の大王は名誉を重んじる。秦との友好を損なってはならないと反論したのです。趙王は私の言を入れられて神前で身を清めること五日そして私に璧を預けられたのです。これも大国に敬意を表するために。ところが大王は壁を手にするや一国の使者に対する礼もとらぬ。大王に城を渡す気持ちはないとみて壁を取り戻したのだ。殺すなら殺しなされ。その前に璧もろとも頭を柱にぶっつけて死ぬまでだ」
昭王は藺相如の勢いにのまれ自分も五日間の斎戒を約束した。
宿舎に戻った藺相如は昭王は城を渡す気などないと見抜き従者に「ボロ服をまとって裏街道を通りこの璧を趙に持ち帰るのだ」と命じる。
藺相如自身は残る気構えだった。
秦王は身を清め改めて藺相如を迎えた。
藺相如は「私は趙王の信頼を裏切るのを怖れ壁はすでに持ち帰らせました。秦が改めて使者を出し十五城を与えれば璧を献上しましょう。私は大王を欺いたことでどんな罰にも服します」と弁明した。
秦の家臣たちは怒ったが昭王はこれを抑え「今ここで藺相如を殺しても壁は手に入らない。そればかりか友好関係も失う。気持ちよく送り帰してやるべきだ」として藺相如をもてなし帰国を許したのである。
この十五城と璧の取引はしないということで落着した。藺相如はこの功により上大夫にとりたてられた。
それから数年後(前281)秦は無敵の猛将・白起に趙侵攻を命じる。
白起はここでも勝ち続けたが翌年秦王は西河の南・澠地で友好の会談をしたいと使者を送ってきた。
恵文王は信用できないとして「行かぬ」と言ったがこれを廉頗大将軍が反対した。「行かなければ趙の弱さと卑屈さを示し秦をますます付け上がらせます」
藺相如もこれに同意した。
やむなく恵文王は生きて帰れぬかもしれないと覚悟して藺相如を伴い城を出た。
廉頗将軍は国境まで王を送り「三十日でお帰りなくば太子を立てて王とします」と言い藺相如に王を頼んだ。
恵文王一行は澠地へ向かった。
秦王は盛大な宴席を用意して趙王を迎えた。
宴席もたけなわとなった頃秦王は趙王に「趙王は音楽好きと聞く。ひとつ琴でも弾いてくださらぬか」と言い出した。
趙王はやむなく一曲琴を弾いた。
秦王は記録官に「これを記録せよ」と命じた。
「はい。〇月〇日、秦王趙王に銘じて琴を弾かせる」
これを聞いた藺相如は眉を上げ秦王に話しかける。
「秦王様は秦の音楽に長じておられるとか。この瓦盆(酒を入れる器)を叩いて酒席に興を添えていただきたい」
秦には瓦盆を叩いて歌うという風習があった。これも蛮地の名残である。
秦王は「無礼であろう」と答えたが藺相如は「いいえ、わが王も余興として琴を弾きました。秦王にもやっていただきます」とひかない。
「無礼者」と剣の柄を握る家臣たちに藺相如は「わたしと秦王の距離は五歩ですぞ」ときっぱり言い放つ。

藺相如かっこいい。
そして記録官に「〇月〇日、秦王は趙王のために瓦盆を打つ」と記録させた。
なおも秦の家臣はああいえば藺相如もこう返し酒宴が終わるまでついに秦王は趙王を家臣あつかいにすることはできなかったのである。
帰国に際しても趙王への守りは固く秦は手が出せなかった。
趙王は藺相如のこの功績を認め上郷(大臣)にとりたて同じ上郷の廉頗大将軍より上位においた。
さて廉頗大将軍はこの藺相如の出世に我慢ならなかった。数々の功績を上げた総大将の廉頗にとって元々身分も知れぬ食客だった男の下に置かれるのは自尊心が許さなかったのだ。
廉頗の不満は広まり藺相如は病気と称して外出をやめた。
ある日藺相如の側近が閉じこもっている主人を案じて外出をすすめた。
藺相如も答えて馬車を用意させる。
鳥がさえずり花が咲き乱れる景色に気分良くなっていた藺相如の前に廉頗将軍の乗る馬車が見えた。
藺相如は馬車を建物の裏に回らせ廉頗将軍が通り過ぎるのを待って屋敷に引き返した。
このことを藺相如の従者たちは「我慢ならない卑劣な行為」とみなしてこの屋敷を立ち去ると言い出した。
これを聞いた藺相如は「廉頗将軍よりも秦王の方が怖ろしいはず。その秦王を怖れなかった私がなぜ廉頗将軍を怖れると思うのか。あれほど強大な秦がなぜ我が国を攻めないのか、それはわしと廉頗将軍が頑張っているからだ。今わしと廉頗将軍の間が上手くいかなくなったらそれこそ秦の思う壺。わしが争いをさけるのは個人の争いよりも国家の方が大事だからじゃ」と諭した。
従者たちは藺相如の深い心を知り主人への無礼を謝した。
この話はたちまち宮中に広がった。
ある家臣が藺相如の屋敷に出向き「廉頗将軍と会ってほしい」と申し出た。
藺相如は断ったが廉頗将軍はこの屋敷まで来ているのじゃという。
趙の総司令官を玄関払いにはできないと藺相如は迎えに出た。
そこには廉頗将軍の姿があった。

廉頗将軍はこの荊の鞭で心ゆくまでお打ちくだされと言うのである。
藺相如はひざまずき廉頗将軍の手を取って「あなたがおられるからこそ他国は趙に手出しできないのです」と着物を着せ酒席を用意させた。
廉頗将軍は「わしは藺相如殿のためなら頸(首)を刎ねられても悔いはない」と言い藺相如も「それがしも同じでござる」と答えた。
その友のためなら頸(首)を刎ねられても悔いはない、という『刎頸の交わり」または「刎頸の友」という言葉はここから生まれた。
秦はその後、藺相如と廉頗が元気なうちは趙への侵攻はしなかったのである。
廉頗将軍、極端すぎるけど良い人だ。まじで恥ずかしかったと思うしww
いきなり荊の鞭持って半裸のマッチョがひざまずいてたら怖い。
藺相如がそれでムラムラする人じゃなくてよかったよかった。
刎頸の友、なのにエピソードは荊の鞭というわかりにくさよ。しかしぶっとい荊の鞭だなあ。