
ネタバレします。

戦国の四公子のひとり、平原君趙勝は趙の恵文王の弟で恵文王と孝成王の二代に仕え三度宰相をつとめ多くの食客を抱えていたので有名である。
紀元前262年、秦は再び趙に攻め入り国都邯鄲を包囲。趙は懸命に防戦し両軍の攻防は九か月に渡った。
ここで平原君は楚と同盟を結び援軍を請うという王命を担う。
二十名の知勇兼備の士を三千人の食客の中から選抜するもあと一人が決まらない。
名乗り出た毛遂という男を平原君は名前さえ憶えていなかった。
「才能ある人物はたとえてみれば錐のようなものだ。錐は袋に入れればたちまち先が突き出るもの。あなたはなんの功名もない」と平原君は訝しむが毛遂はこれに「それは今まで私が袋に入れられる機会がなかっただけです。私を袋に入れていただけたならば先端どころか柄まで突き抜けていたでしょう」
平原君はこの気概に押されメンバーに入れたのであった。
他のメンバーたちは毛遂のこの言動を嘲笑うだけだった。
が、一行が楚に到着し平原君が王に連合の要求をするも話は難航しいっこうにまとまらない。
平原君が連れてきた知勇兼備の士たちも手をこまねいて見つめているだけだった。
これを見かね楚王に近づき猛然と抗議したのが毛遂だった。
毛遂はここでも激しい口調で楚王に迫り強行に同盟をまとめ上げる。
すぐに毛遂は生贄の血を用意させて儀式を行わせ楚王と趙王そして自らその血を啜った。
毛遂はずらりと並んだ知勇兼備の士たちに「いう事は言うがいざという時に何の役にも立たぬ」と言いながら血の器を差し出した。
十九人は顔を赤らめながら血を啜った。
あまりにも強引な論破だが時にはこうした強引さも必要ということなのかなあ。
平原君は毛遂の三寸の下は百万の大軍にもまさるとして客分の最上位の待遇を与えた。
楚では宰相の春申君、魏でが信陵君が趙への援軍として動いた。
だがその間に秦は邯鄲に猛攻撃を加え兵士は防戦するももはや敗色が濃厚となった。
食料は底をつき民衆は自分の子と他人の子を交換して殺して食料としたのだった。
武器はなくなり兵卒は木を削って槍や矢を作った。
邯鄲陥落は時間の問題だった。
宿場役人の李同という男が平原君に陳情した。「あなたさまは趙の滅亡を他人事のように見ておられます」
平原君は怒っ「民衆が子供たちを交換して食料にし木を削って戦っているのに平原君の側室たちはあいもかわらずきれいな着物を着て美味いものを食べている。屋敷の中は銅の器物でうまっていますが趙が滅びれば後宮も財産もなくなってしまう。私が他人事のように見ているといったのはそのことなのです」と訴えた。
平原君は李同に誤り屋敷の中の食料も武器に仕えるものもすべて放出した。
女たちも炊き出しや負傷兵の看病にあたらせたのである。
李同は感謝した後「決死隊をつのりたい」と言い出した。援軍が来るまで時を稼ぐというのだ。平原君が皆のためにすべてを投げ出されたように我らも何かをしたいのだと。
平原君は感謝してこれを許した。
決死隊は三千に達し李同のもと出撃した。
この戦闘で李同は討ち死にしたが秦軍は決死隊に閉口して陣を三十里後退したのである。
この時、楚の春申君、魏の信陵君率いる援軍が到着した。
特に政治家としても兵法家としても優れていた魏の信陵君の働きはめざましく秦軍を撃破していった。
秦の昭王は慌てて白起将軍に出陣を命じたものの白起はこれに応じず怒った昭王によって自決を迫られたのだった。
趙は滅亡をまぬがれ再び平和を取り戻した。
戦死した李同にはその手柄によって父親に領地が与えられ李侯と呼ばれるようになった。

戦国時代の四公子のひとり、楚の春申君は姓は黄、名は歇という。楚の三十七代頃襄王に仕えていたが学識もあり度胸も備わり楚王に高く評価されていた。
この頃、楚は秦の猛将白起に国都を奪われ都を東方の陳に移していた。
秦は追い打ちをかけるように白起に楚制圧を明示さらに服従している魏や韓にも協力するよう命じた。
こんな時に黄歇は楚の使者として秦にやってきたのであった。
黄歇は急いで秦王に書簡をしたためた。
強国である秦と楚が戦うのは二頭の虎が戦うことだと例えて虎が戦いで弱った時に周囲の駄犬のような弱小国が襲い掛かってくるでしょう。今は秦にへりくだっている弱小国が心から服従しているわけではありません。
それよりも強国である秦と楚が同盟を結ぶことこそが両国の安全となりましょう、と訴えたのだ。
秦王は深く同意し使者である黄歇を呼び、楚の太子・完を人質にすることで同盟をまとめたのだった。
黄歇は太子の付き人となった。
数年後、楚王が病で倒れた。
こうなると太子が帰国せねば他の公子が楚王となってしまう。
黄歇は命に代えても太子を帰国させるとして太子を農民に化けさせひとり秦を脱出した。
残った黄歇は数日後に人質である太子を帰国させた旨を秦王に報告した。
秦王は怒り黄歇の処刑を命じる。がここで宰相の范雎が止めた。
黄歇を処刑すれば次の楚王の怒りを買うが罪を問わず帰国させれば必ずや黄歇を重く用いるでしょう。
楚との友好のためにはそうする方が良いと思われまする、と進言したのだ。
頃襄王は死去し太子・完が即位して三十八代孝烈王となった。
王は黄歇に感謝し宰相としたうえ十二県を与え称号も春申君とした。
春申君は天下から有能の士を集め食客としその数は三千人にのぼった。
さて春申君が宰相になって三年目に秦と趙は長平で大合戦をして趙は四十万の兵を失うという大惨敗を喫した。趙は六城を与えて和議をしたものの秦は二年後再び趙の国都・邯鄲に出撃。
趙は楚に援軍を求めた。そして趙の平原君の食客毛遂の働きで両国は同盟を結ぶ。
楚は春申君を総大将として援軍を差し向けた。
滅亡寸前だった趙は楚・魏の援軍を得てよみがえった。
秦軍は連合軍に手痛い打撃を受け敗走したのである。
春申君は楚をより強国にせんと努力した。
前249年には魯を滅ぼし楚の領土とした。
さらに都を陳から寿春に遷都し自分は呉後に移って政治を行った。
すべて秦の侵攻に備えての手配であった。
ただ一つの悩みは孝烈王が子宝に恵まれなかったことである。
一方その間に秦も大きく変わっていた。
昭王が死去し後継者の孝文王は老齢で一年、荘襄王は三年で世を去り十三歳の政が秦王となっていた。これが始皇帝である。
春申君は若い頃に一通の手紙で祖国の危機を救った智謀の士であり命がけで主君を王位につけた忠臣であった。
ところが宰相となって権力をほしいままにした後、李園とその妹の策略によってそそのかされ自分の子を身ごもったその妹を子宝に恵まれぬ王に差し出し我が子を王にしてしまうという野望を抱く。
しかも自らの食客からの助言を得たにも関わらず李園の謀略に気づかず殺害される。あれほどの活躍を見せた春申君の末路は打ち落とされた首を城門の外に投げ捨てられてしまうというものだった。
司馬遷は「春申君老いたり」と記した。
それでも春申君の子供である五歳児が楚の第三十九代め幽王となったのだ。
ややこしい話が続いたので簡略化しようと思ったのに読んでいたらやっぱり面白くて通常通りになってしまった。
平原君、春申君という名前の響きが気になっていたのでよかったよかった。