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『史記』横山光輝 ⑧ 再読 第3話「始皇帝ー2-」第4話「趙高の陰謀」

ネタバレします。

 

前213年、始皇帝は咸陽宮で大宴会を催した。この宴会が歴史に残る事件の引き金となった。

始皇帝は四十六歳で絶頂期であった。

七十人の博士たちが次々と祝いの言葉を述べた。

始皇帝は上機嫌で聞いていた。

ところがひとりの博士の言った言葉を始皇帝は宿題としたのだった。

それは殷周の王朝が千年も栄えたのは指定や功臣を諸侯に封じて王室を守らせたからです。始皇帝様もいにしえを手本とするべきです、と。

ところが李信はこれに反対し「いにしえの帝も前代の政治を踏襲したわけではありません。時代が変わったから時代に合った政治をしたのです。今始皇帝は誰も成し得なかった天下統一という学者の想像を超える大偉業をなされました。昔話がどうして手本になりましょうか。学者どもは新しい時代の今を師とせず昔を良しとします。これを放置しておけば陛下の権威は衰え、新しい政治に反対する者が増えましょう」と上奏書をしたためた。

始皇帝は李斯の意見に同意し詩・書・諸子の書はすべて地方官のもとに差し出させて焼き捨てよ。詩・書を論じる者はさらし首、上古を理想として現代を非難する者は一族皆殺しといたせ、とした。

 

各地で学問の書は没収され官吏によってすべて焼き捨てられた。

世に言う「焚書」である。

 

始皇帝に対し不満を持つ方士ふたりが逃げ出したことをきっかけに儒者は査問にかけられ結果四百六十余人が有罪となり生き埋めとなった。

これが「坑儒」である。

それ以降も儒者の摘発は厳しくなっていく。

 

長男・扶蘇が父・始皇帝に会い焚書坑儒を諫めた。これを始皇帝は嫌い息子であっても追放したのである。

 

翌年、始皇帝は九原から甘泉まで直線道路の建設を命じた。

匈奴の来襲に素早く対応するためである。

山を削り谷を埋めて作られた直道は700キロに達する。

更に始皇帝陵の築造を命じた。この驪山領は秦王に即位した時から造られてはいたがそれを皇帝の墓にふさわしいものにせよと命じたのである。

 

地下に宮殿を作り水銀で川や海、天井には星座を作った。

と同時に渭水の南に阿房宮の建設を命じた。木造建築として歴史上最大のものである。

さらに阿房宮から咸陽まで渭水の上を二層の回廊でつないだ。

これら工事の労働に駆り出された人々は百万人にのぼる。

それに関与した人々はその二倍とも三倍ともいわれた。

召集され到着日に遅れると死刑という厳しいものであった。

怨嗟の声が広まっていったのである。

 

この頃、始皇帝の容態は次第に悪くなり後宮にひきこもりがちとなった。

上奏文の採決は宦官・趙高を通さねば受け付けられなくなっていく。

この宦官は始皇帝のお気に入りであり次男・胡亥の教育係でもあった。

 

始皇帝の研ぎ澄まされた思考能力が腐っていくのがわかる。

同じように賢者だった李斯も落ちていく。

急浮上した宦官・趙高だけが暗躍していくのである。

 

前211年東部に隕石が落ち、それに「始皇死して地分かたる」と落書きされたのだ。これを知った始皇帝は激怒。犯人を捜せと近くの村人を打ち据えさらには家々に火を放ち逃げ惑う村人を皆殺しにした。

始皇帝は神に対し自分が仙人になれないことを恨んだ。

 

その折、趙高は始皇帝に「占星術によれば巡幸するが吉」と申し上げる。

前210年始皇帝は五回目の巡幸に出た。

 

だが始皇帝の容態はますます悪くなり長男扶蘇に「北方より帰り咸陽で喪主となって葬儀を執り行うよう」という遺書をしたためたのだ。

趙高は遺書を盗み見て画策する。

 

巡幸は続けられた。

その馬車の中で始皇帝は死去していた。

気づいた趙高は画策を実行していく。

まずは始皇帝の死去を公言せず李斯を抱きこんで協力させ言いなりになる次男・胡亥に次期皇帝になるよう言い含めた。

馬車の中の始皇帝の遺骸は腐臭を発したがそれでも誤魔化しながら巡幸は続けられたのだ。

始皇帝は長寿を念願しながらも四十九歳で生涯を閉じた。

 

さらに趙高は胡亥を二世皇帝にするため長男扶蘇を亡き者にした。扶蘇は人望もあり後ろ盾に蒙恬将軍がついており最大の邪魔者だった。

蒙恬将軍には三十万もの軍勢がついていたのだ。

趙高は扶蘇に「自決せよ」という偽の始皇帝の勅書を作り上げた。

扶蘇は自決し蒙恬将軍は投獄されたのである。

 

始皇帝は咸陽に戻りそこで初めて逝去が発表される。

趙高は宰相・李斯と共に二代皇帝として遺言されたのだ次男・胡亥であると重臣たちに言い渡した。

 

趙高は先帝の子を産まなかった女性たちを皆地下宮殿で殉死させ盗掘を防ぐ仕掛けをした工匠たちも殉死とした。

地下宮殿には巨万の財宝が埋葬されることになっていた。

 

葬儀が終わると胡亥が二代皇帝となった。二十一歳の時である。

趙高は郎中令(官房長官)となった。

 

胡亥は獄中にいる蒙恬将軍を許そうと言い出すが趙高は反対した。

力のある蒙一族を見逃すわけにはいかなかった。

趙高は虚偽の罪を作り蒙恬将軍とその弟を処刑したのである。

蒙恬将軍は万里の長城を完成させた将軍として有名。

 

胡亥皇帝は始皇帝を真似て巡幸に出る。

しかしこれは胡亥の器量の無さを天下に示す結果となってしまう。

胡亥は己の権威を高める方法を趙高に問う。

趙高が選んだのは各郡県の官吏を厳しく調べ罪あるものは処刑していく、というものだった。

不平分子を一気に粛清し秦を我が意のままに操ることに趙高は没頭していく。

 

こうして恐怖政治が始まった。

少しでも落ち度があればどの身分でも容赦なく処刑された。

不平派と見られれば落ち度がなくとも罪をでっちあげられ処刑。

公子十二人が処刑され、公主(娘)も磔にされ財産は没収された。

その後も処刑は続きその一族も処刑された。

秦帝国を築いた功労者・李斯もなすすべもなかった。そしていずれは自分の身にもという予感だけがあった。

 

絵に描いたような帝国の終焉の様。

三者として眺めていれば何の力もない宦官と言いなりになっている若者によるシステムエラーなのだけどその中にいる者たちはそのエラーに気づきながらもどうすることもできないのだ。

ある時までは優秀だったかもしれない始皇帝の頭脳が腐っていく様もよくある話で。

これも賢者だったはずの李斯はなにもできずに手をこまねいている。

 

さすが始皇帝あらゆる物語の基盤になっているかのような物語である。

いや、作り話ではないというのがもう。

ここに中国独特の宦官というキャラクターが入ってくる。

この宦官はとにかく清朝の末期まで大活躍してしまうのだから怖ろしい。

どうして宦官なのか。

どうしてこの怖ろしい装置を止めなかったのか。

人間の恐ろしさを感じてしまう。