
革命だあっ
ネタバレします。

始皇帝が最初の皇帝ならば、陳勝は最初の農民一揆の指導者である。
蘄県大沢郷(現在の安徽省宿州市埇橋区)数日の豪雨で通行不能となっていた。
陳勝・呉広ら農民たちは辺境守備のため駆り出されたのだが期日までに到着せぬ時は死刑という秦の厳罰が待っていた。
だが豪雨で道は水没し彼らが期日までに行くことはできないと判っていた。
陳勝は「逃げても死、行っても死なら万が一でも生き延びられる道を選ばぬか」と呉広に持ちかけた。「ここにいる農民らも味方につけて天下に呼びかけるのだ」
呉広も同意したが問題はどうやって九百人の農民たちを味方につけるかだった。
呉広は「鬼神の力を借りておまえに神秘性をもたせよう」と言い出す。
まずは捕らえてきた魚の腹に「陳勝が王たらん」と書かれた紙が入っていたことで神のお告げか?という噂が農民たちに広まる。
むろん、陳勝が漁師の網にかかった魚にこっそり仕込んだものだった。
夜中に林の祠に狐火が見え農民たちが駆けだしていくと「楚国が起こり陳勝が王たらん」という大声が何度も聞こえた。農民たちは恐れをなして逃げ出した。
農民らの陳勝を見る目が変わってきた。
そこで呉広はこの招集の軍官に向かって「俺は逃げるぞ」と言って怒らせ処罰を受ける。あえて皆の同情と反抗心を引き出した上で軍官を斬り殺したのだ。
続けて陳勝も別の軍官を刺し殺した。
陳勝はここで演説をする。
「このまま行けばどちらに転んでも俺たちの運命は死しかない。が、どうせ死ぬのなら名を残して死にたくないか。産まれてきた時は王だろうと大臣だろうとその地位は約束されてはいない。皆自分の力で手に入れるのだ」
「王侯将相いずくんぞ種あらんや」という陳勝の言葉は皆を奮い立たせた。
九百人の農民は陳勝についていくと誓った。
これが最初の農民一揆であった。
農民軍は木の棒や鋤を武器にして大沢郷を占領。
そこで武器や仲間を集め蘄県を占領した。
陳勝はさらに東の諸県を次々と落としていく。
そして南北の交通の要所・陳へ進軍。この時陳勝軍は戦車七百、騎兵千人、歩兵は数万人に膨れ上がっていた。
陳の郡主・県令は逃げ出し副官がわずかの兵だけで応戦したがたちまち敗れ去った。
陳勝は呉広に「ここは交通の要路だ。ここを秦打倒の根拠地にする」と言った。
呉降雨はこの地の有力者や三老に相談し協力を乞うた。三老は陳勝に「王を名乗って天下に声をかけてくだされ」と願い出る。
陳勝は王となり国号を「張楚」と定めた。これが史上初の農民政権である。
陳勝の呼びかけに答えて各地で数千人単位の放棄が無数に起こった。
楚の貴族・項梁、項羽。
そして劉邦もその一人である。
ここからの描写は横山氏の演出なのかそういうものなのかわからないが実在するものの真似をしているようでおかしくもある。
陳勝が王様の格好をし他の者も大臣のコスプレをしているようだ。
というかこれが「種あらんや」なのかもしれない。
王となった陳勝は将軍たちに各地の平定を命じていく。
だがその将軍が平定した場所で王を名乗り上げていると聞くと陳勝は怒った。
だが秦を倒すことが目的である陳勝はここで内部分裂を起こすことはできなかった。
それよりも呉広将軍が榮陽で苦戦しており咸陽攻略軍をあらためて作らねばならなかった。
ここでかつて春申君に仕えたという周文という人物が将軍となり西進しながら兵を集め函谷関まで着た時には戦車千輌、歩兵数十万となっていた。
一気に函谷関を打ち破り咸陽付近の戯に陣を構えた。
秦では二世皇帝がこの噂を聞き趙高を問いただしていた。
が、趙高はしょせん農民一揆と嘲笑し名将・章邯将軍に討伐を命じた。
与えられる兵は二万のみだったため章邯は囚人を兵士として使いたいと言い出す。
死刑囚でも兵士として参加し敵の首をあげれば無罪となる、という条件で章邯は囚人たちを兵士とした。
手柄次第で生きて帰れるという囚人兵士の意気込みは違っていた。
囚人軍は周文軍に突入。
周文軍はこの勢いに押され敗走した。が囚人軍は追撃を重ね周文はついに澠地で自決するに至った。
陳勝軍は大きな痛手を負う。
榮陽にもこの報が届き田藏将軍は章邯軍を迎撃せねばと考えたがそれには呉広将軍が邪魔だった。
しかしこれは作戦を反対されたための緊急処置と説明され陳勝は何も言えなかった。
寄合世帯の悲劇。陳勝にこれを抑えきれる力はなかったのだ。
だがその田藏軍も章邯のために壊滅された。
章邯軍は破竹の勢いで次々と農民軍を打ち破りついに陳にまで迫る。
陳勝王は自ら先頭に立って章邯を迎え撃とうとした。
激戦の末、陳勝軍も打ち破られた。
陳勝はかろうじて脱出、下城父まで逃げようとした。
だが途中で休息をしようとした時、陳勝は従者・荘賈に殺害され首を打ち落とされて章邯に届けられた。
陳勝の作った最初の農民政権は半年で終わった。
だが反秦の闘争は燎原の火のように燃え広まっていった。
現中国ではこの陳勝を英雄として扱っている。

さてここから項羽と劉邦の物語となる。
前にも書いたと思うがこの横山マンガ版の劉邦はいつも通りでいいのだけど項羽がどうしても受け入れがたいのである。
そもそも私にとっての項羽は『覇王別姫』の項羽なのでラブロマンスイメージが先にありこの武骨な項羽が謎でしかない。
そういう思いはあるのだが劉邦はなかなか良いので一応進めていく。
項羽は楚の名称項燕の孫であり楚が秦との決戦に敗れ滅亡した後、叔父の項梁と共に呉中に身を隠していた。
ここで項羽は叔父のもとで幼少期を送る。
勉学よりも武芸を選び、武芸の中でも個人技よりも兵法を好んだ。
「あれを倒せばおれが皇帝とやらになれるのか」叔父は慌ててその口を押え「大事を成す者は何事も用心深くするものだ」といさめた。
二十歳を過ぎ大男となった項羽は大きな鼎を一人で持ち上げるほどの怪力であった。
呉中の若者は項羽の子分となっていった。
項羽二十四歳の時、農民・陳勝が反乱を起こしこれをきっかけに各地で反乱がおこった。
項羽の叔父・項梁は反秦の旗揚げをした。
項羽に郡主を殺させ会稽城を乗っ取り兵を募集し軍を編成した。
会稽にはあっという間に八千の兵が集まった。
しかしこの間に陳勝は御者に殺され召兵という人物が偽の命令書を持たせて項梁に使者を送った。
陳勝王に楚の宰相に任命され項梁はただちに秦打倒の進撃を始める。
同じ頃、沛では亭長(下役人)の劉邦が蜂起。
劉邦は項軍と連合を組んだ。
項羽と劉邦の最初の出会いであった。
六では英布が蜂起。英布は他人の罪の連座で額に刺青(黥)をされていたので黥布とも呼ばれていた。
英布も項軍と合流した。
項軍は総勢七万に膨れ上がっていた。
ここで実は陳勝王が死んでいたと知らされ項梁は善後策を相談したが良い案が浮かばない。
ここで登場するのが范増である。
老人の范増は「陳勝の敗北は目に見えていた」という。
秦に滅ぼされた国で一番気の毒だったのは楚である。秦は楚王を人質にとり生涯幽閉して帰国させなかった。
楚の人々は今もこれを憐れんでいる。
陳勝はせっかく反秦の旗印を上げたのに楚の人の心を読まず楚王の子孫を立てず自分が王になった。それが敗因だ。項梁が挙兵した途端将が集まってきたのは項梁が楚の将軍の家柄だからだ。そこを忘れてはいけない、というのである。
項羽はこれに賛同し楚王の子孫を探して立てた。
そして項羽は范増を参謀としたのである。
范増の言った通りその効果は大きく楚の各地で身を潜めていた兵士が続々と集まってきた。もと楚の将軍であった宋義も三万騎を引き連れ駆け付けた。
秦も援軍を次々と繰り出し章邯と共に各地の反秦軍を鎮圧していき、楚を討つために東の東阿(山東省)に陣を敷いた。
楚も項梁が総大将となり二十万の兵を率いて出陣した。
項羽は名馬・烏騅にまたがり秦陣の章邯に呼びかけた。
章邯は「やつの首を取れ」と命じ腕自慢の将が次々と飛び出したが項羽の一撃で皆倒されていった。
項梁は「項羽を見殺しにするな」と総攻撃をかけた。
秦軍もそれに応じた。
が、項羽の凄まじい攻撃に秦軍は三方に別れて敗走した。
この合戦で二十代半ばの項羽はその名を天下にとどろかせた。
項羽の強さがいまいちよくわからない。
そういうものなのだと納得するしかない気がする。
横山先生も好きではなかったのでは、と感じてしまうのだ。