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散策

『史記』横山光輝 ⑩ 再読 第1話「函谷関への道」第2話「関中一番乗り」

かなり来ましたねえ。

 

もう何度も「函谷関」という言葉が出てくるたびに「函谷関もものならず~♪」という歌が流れて来て困る。

 

さて楚軍は項羽劉邦などに分かれて秦軍と戦っていたが定陶城にいた項羽の叔父・項梁は作戦が上手くいかず夜襲にあって壊滅的打撃を受け項梁自身が斬り殺されてしまったのだ。

項羽劉邦は知らせを受けて駆け付けたがそこには累々たる楚兵の死体があり秦の章邯将軍はすでに趙へ進路をとっていた。

子供の頃から共に暮らし父親に等しい項梁を殺された項羽は逆上した。

そして定陶城内に住む住民を皆殺しにしたのだった。

 

横山光輝氏がどうも項羽を快く思っておらずかっこ悪く描いているのはこうした人格のせいだと思う。力のない住民を皆殺しにするような男を美形に描きたくないのだ。

 

この思いは楚の懐王や側近にもあったようだ。

側近との話し合いで二つの軍を作りひとつを劉邦に任せ武関へ、もう一つは宋義将軍にして函谷関へ進ませた。

そして懐王は二人を呼び先に関中に入った者を関中の王とする、と約束したあのである。

「これは正義の戦いである。両将軍とも頑張ってくれい」と懐王は声をかけた。

 

その間に秦の章邯は黄河を渡り趙の城を次々と落としていった。

趙王は危険を感じて籠城したのだった。

趙は各国に救援を求めた。

懐王にも使者が届き懐王は宋義将軍に救援に行くよう伝えた。

ところが宋義は安陽の地で進軍を中止し四十六日間動こうとしなかった。

項羽はこれに抗議をしたが宋義将軍は「これは駆け引きじゃ」と言って動こうとしない。

項羽は納得できず范増に意見を求めた。

范増は「宋義将軍は息子を斉の大臣にして権力を強化し楚王を越える力を持つ存在になろうとしている」と答えた。

項羽は宋義将軍を殺害すると宣告するが范増はその前に斉に向かった息子を殺しておくべきでしょうと助言した。

 

翌朝項羽はひとり宋義将軍の陣幕に入り有無を言わせず首を斬り落とした。

項羽は兵たちの前で宋義の首を掲げ「宋義は斉と計って楚王の地位を狙っていた。よってわしが誅殺したのだ。異存はあるか」と叫んだ。

誰も反抗する者はいなかった。

「よし。ではこれよりわが軍は趙救援へ向かう」

宋義の息子も項羽の放った兵によって殺された。

 

趙王が立てこもる城はすでに落城寸前だった。

諸侯が送った援軍も秦軍のあまりの強さに砦を築いてそこから出て戦おうとはしていなかったのだ。

楚軍は黄河を渡った。

項羽は船をみな沈めさせた。将兵には三日分だけの食料を与えて残った食料も黄河に捨てさせた。

項羽は三日で楚軍との勝負をつける。そうでなければわが軍は全滅ということじゃ、として章邯軍へ突入していった。

勝たねば死ぬだけだ、という激しい闘志を持った楚軍は章邯軍の陣を突破していく。

諸侯はそのすさまじい戦いぶりを息をのんで見守っていた。

そしてついに項羽は秦の誇る最強軍団を敗走させたのだ。

救援に駆けつけてなにもできなかった諸侯は項羽の前に土下座した。

項羽はこの戦いで諸侯の上に立ったのである。

 

項羽は諸侯の軍も従えて追撃を開始。

勢いに乗って秦軍を次々と撃破していった。

さしもの章邯将軍も兵力が項羽軍の半分となってしまい援軍を要請した。ところが使者となった司馬欣は宮城外門に留められ丞相趙高に会うことが許されなかった。

これに助言する者がいた。

「趙高は敗戦の原因を章邯将軍やあなたに擦り付け処刑するつもりです。お逃げなされ」

司馬欣は逃げて章邯将軍にこれを告げた。

「たとえ戦に勝っても趙高は妬み何をされるかわかりません」

勝っても負けても居場所はないということか、と章邯は楚軍に降伏を望んだ。

しかし項羽はこの話を聞き入れず攻撃を重ね秦軍を打ち破っていった。

せっぱつまった章邯は再び盟約の使者を送る。

「秦打倒のために協力する」というのだ。

参謀の范増はこれを受けるよう勧めた。

こうして殷の都の廃墟で項羽は章邯と会見し盟約が結ばれた。

 

だがこれまでの恨みがある楚兵たちは秦兵らを奴隷のように扱い秦軍を先陣として戦わせた。

秦兵たちはこの扱いに憤り不満が溜まっていった。

秦兵たちの恨み言を聞いた項羽は二十万の秦兵の反乱を考慮し生き埋めにすることにした。

(いちいちものすごいんだよな、項羽の処分)

楚軍は秦の兵士たちを谷へと追い込み頭上から岩を落として二十万の兵士の命を消滅したのである。

後に劉邦項羽と対決した時、この虐殺を大義名分のひとつに数えた。

 

そして「一番乗り」とくればどうしても「甘寧」と叫んでしまうよね。

 

さてもう一つの軍を任された劉邦は南路から武関を目指した。

まず彭城から北進し秦軍のたてこもる要害昌邑へ向かった。

劉邦の主力部隊は沛県からつれてきた兵で総勢数万であった。この時は彭越が千騎の兵を引き連れ合流してきた。

劉邦はまず昌邑を攻撃。なかなか落ちずに弱っていると合流してきた彭越が「ここは俺たちにまかせて先に進んでください」と言い出す。

劉邦は昌邑を彭越にまかせて関中へ向かった。(いいのかそれでw)

 

劉邦は秦軍を撃破しながら高陽まで進む。

ここで劉邦は酈食其(れきいき)という儒者に会う。

儒者が嫌いな劉邦だが「なかなかの賢人」と聞いて会う気になった。

酈食其が劉邦を訪ねると劉邦は足を女たちに洗わせているところだった。

酈食其はこれを年長者に対して無礼だと怒る。

さすがの劉邦もこれには謝罪して居ずまいを正した。(当たり前だ)

 

正式に酈食其を迎え差し向かいになった劉邦は「我らの力で秦の天下を覆すことができましょうか」と問う。

酈食其は「まずは陳留県を味方につけ帰順をすすめてみましょう」と答えた。帰順に応じなければ攻めるしかないがそこは酈食其が城内から呼応するとした。

 

が酈食其はすんなりと陳留県の帰順を説得してきたのである。

劉邦はこの手柄によって酈食其を広野君とした。

 

劉邦軍はさらに西進。

酈食其はここで劉邦に韓の張良を側近にするよう勧めた。

 

ここで張良のエピソード。

橋のたもとで不思議な老人に出会い老人が蹴飛ばした靴を拾って上げると今度は履かせろと言い履かせると「見どころのあるやつだ。五日後の夜明けにここに来い」と言われ言葉通りに行くともう老人は来ており「年長者を待たせるやつがいるか」ともう五日後に来させ朝早く行くがやはりもう来ており更に五日後に夜中に出て老人を待ち太公望兵法書をもらう、というものである。

 

酈食其の張良は必要という言葉に従い劉邦は韓軍のもとへ参じて張良と再会した。

たったの千名で戦っていた韓軍に合流して秦軍に向かった。

劉邦の援軍によって張良の兵法は役立ち、あっというまに韓の十数城を落とした秦軍を撃破したのである。

 

韓王は劉邦に感謝した。劉邦は「兵力をお借りしたいが」というと韓王は「このありさまでは」と言いよどむ。

「そこで関中に入るまで張良殿をお貸しくだされませぬか」と劉邦は畳み込んだのである。

張良は「韓王様。これだけ力添えしてくださった沛公に恩返ししたい」と劉邦の供を願った。

韓王はやむなしとしてこれを許可した。

 

こうして張良劉邦軍に加わったのである。

張良を得て劉邦軍はますます進撃を速めていく。

劉邦は敗走する秦軍を追撃しながら灞上まで到達した。

秦王子嬰はもはやこれまでと白い馬、白い馬車、白い喪服を着て降伏してきたのである。

 

二世皇帝胡亥は始皇帝の権威を守ることしか考えず、宦官趙高は自分の野心のために有能な人物を抹殺していった。これは秦の滅亡を早めるだけだった。

劉邦張良・酈食其の働きによりついに関中一番乗りを果たしたのである。

 

張良は女性と見まごうほどの美貌だったという。

横山氏は張良を女性的には描いていないけど氏が描く最も美形に描いている感じがする。

フライ返しのような不思議な飾りをつけていても張良の美貌は健在なのである。