
中国映画で男たちがやたらと屈辱に耐えながら股をくぐってるのが謎だったんだけどこれを読んで意味がわかりました。
ネタバレします。

韓信。淮陰(江蘇省)の貧しい平民に生まれ容姿も見栄えしなかった。生年月日は不明。
若い頃は学者の門下生となり勉学に励んだが郷里の母の死を聞いても帰らなかったために師の怒りを買って破門となる。
韓信は小高い丘の上に母の墓を作った。
その後韓信は淮陰軍の下郷にある南昌の亭長の居候となるもその妻から嫌われ仕方なく浮浪者となった。
あまりにひもじくて貧しい老婆から昼飯を譲ってもらうほど困窮した。
町に出ると気の荒い連中からからかわれ「持っている剣でわしを突いて見ろ」と嘲笑われた。
「突かねえのならわしのまたぐらをくぐれ。そしたらここは通してやる」となおも嘲られ韓信は「恥は一時、志は一生だ」と思い黙って股をくぐった。
人々は笑い転げ嘲りをこめて韓信を「股夫」と呼んだ。
まもなく農民陳勝が反乱を起こし、秦の暴政に苦しんでいた人々はそれに呼応し反秦の火は全国に広がった。
この流れに乗って楚の項梁、項羽も秦打倒の旗を掲げた。
人々は続々と項梁のもとに集まった。
韓信もまたこの時楚軍に加わったのだ。
しかし身分もなく無名の韓信はただの雑兵だった。
韓信は次々と献策をしたが無視され続けたのだ。
韓信は雑兵のまま楚軍と行動を共にした。
だが関中にたどり着くとすでに南路から進んだ劉邦が一番乗りをし灞上で待機していた。ここで韓信は項羽が劉邦を攻め滅ぼすらしいこととその劉邦は賢人の話をよく聞くから一番乗りできたことを聞いた。
結局項羽は力によって論功行賞を決めた。それは不公平なものだった。
本来ならば関中の王となるべき劉邦には巴蜀の地が与えられ漢中を都とし漢王とした。
劉邦について行ける兵は三万までだが巴蜀の地と聞いて兵は尻込みし漢王は兵を募集しているという。
これを聞いた韓信は自分は楚軍にいては雑兵のまま、漢王(劉邦)は人の話を聞くという、と考え漢中行きへ応募したのである。
漢中は古代に海底から隆起した土地で険しい山頂から貝の化石が発見されている。
道は崖に添って作られた桟道だった。
その桟道を通過した後焼き払うのを見た韓信は漢王の知恵に感心した。
これで東進するための準備は心置きなくできるのだ。
劉邦は漢中の南鄭を都として国造りを始めた。
応募してきた兵から脱走者が続出。
十三人の男が捕らえられその中に韓信も入っていた。連座制で捕らえられたとあるが何の罪なのかはわかっていない。
十三人の男たちは次々と斬首され韓信の番となった。
ここで韓信は「斬首される前にひとこと申し上げたい」と叫ぶ。「漢はこれから国を興さねばならぬ時、天下を望まんとする上が何ゆえ壮士を斬る」
この時夏侯嬰が韓信の言葉を聞きとがめた。韓信は「壮士の私をむざむざ殺すは漢の損失です」
夏侯嬰が「劉邦様が天下を狙っているというのか」と問うと
「そう思ったからこの僻地までついてきたのです。周りに目のある人がいれば私を殺しますまい」と言いのけた。
夏侯嬰はこの言葉遣いに驚く。
「よしわかった。そなたがそれほどの器かどうか、わかるまで斬首を延ばそう」と言ったのである。
夏侯嬰蕭何丞相に韓信の話をした。
蕭何は直接韓信に会って確かめる。
「兵法を学んだ」という韓信に孫子などの兵法に書かれている内容を話させてみた。すると間違いなく韓信はすらすらと答えたのである。
さらに趙の趙括の敗北の理由を論じた韓信を蕭何は高く評価した。
劉邦はこれを聞き危ぶみながらも食糧官とした。
だが韓信はこれに満足できず逃亡してしまう。
蕭何は「あの男を失ってはならじ」と後を追いかけ強く口説いて引き返した。
ところが劉邦周辺では蕭何が逃亡したという噂になって劉邦は衝撃を受けていた。
そこへ蕭何が帰ってきたという報せがあり劉邦は朝の会議を中止して蕭何と話し合った。
蕭何は逃げ出した韓信を追いかけたのだと話し「あの男こそ国士無双。決して手放してはならないのです」と説いた。
気圧された劉邦が「わかったわかった。大将軍に任命しよう」というと蕭何は「それが漢王様の悪い癖です」と畳み込む。「漢王様の欠点は礼儀を知らぬということです。子供でも呼びつけるように大将軍に任命など無礼でございます」
こうして蕭何によって韓信を大将軍に任命するための拝将台が建てられた後、厳かな儀礼が執り行われたのである。
韓信は劉邦から東進するための大計を教えて欲しいと頼まれ韓信は「天下の派遣を争う相手は項王です」と答えた。そして韓信は「勇猛さと強大さでは漢王は項王に及ばない。項王が怒れば周りの者は皆ひれ伏しますが賢将に任せるという事ができません。これは‶匹夫の勇”です」
さらに「優しさや思いやりがあり負傷者を見ると涙して女性のような優しさを見せますが人が手柄を立ていざ爵位を与える時になると出し渋ってなかなか授けようとしないのです。これは〝婦人の仁”にすぎませぬ」
さらに「項王は気に入った者にだけ王に封じ不公平な扱いをしました。項王の行く所殺戮と破壊が繰り返されます。これでは天下の恨みを買い人民からは慕われず力でもって抑え込んでいるだけなのです。その強きは弱め易しとはこのことです。ですから漢王様は項王の逆を行うべきです」
韓信は「さて東進するにはまず三秦を突破しなければなりませんが心配はありません。
秦民は兵を見殺しにして自分たちだけが助かった新しい王を深く恨んでおり逆に漢王は秦に入っても民を殺めなかった。秦民は漢王様に協力するでしょう」
それまで疑惑を持っていた皆も韓信のこれらの発言によって大将軍にふさわしいと納得したのであった。
韓信はまず兵士を鍛え精鋭とし厳しい軍規を作った。将兵たちの間に緊張が走り懸命に訓練をした。
同時にひそかに桟道の復旧を命じた。
韓信は劉邦に東進を開始すると告げる。斉の反乱に項王がからみさしもの項王も手こずっている状態で今こそ絶好の機会なのだ。
こうして韓信は東進を開始した。
劉邦が漢中に入って四か月後の事だった。(案外早い)
まずは漢の出口を塞ぐ上秦の散関に押し寄せる。
韓信はこの日のために既に腕達者を農民などに化けさせてひそかに城内に送り込んでいた。彼らは中から門番らに襲い掛かり城門を開けた。
これほどの要害が二日で陥落してしまったのである。
続けて韓信は章邯の居城へ迫る。堅固な様子を見た韓信は周囲の地形を見て白水川の水嵩が高いのを利用して上流を堰き止め下流にも堰を作らせた。兵士の兵糧袋に砂を摘めて堰を作らせたのだ。
白水の水は三日で溢れ堰を切って落とすと下流の堰でくい止められて川はあふれ出した。章邯の城は水浸しとなってしまったのである。
これを韓信の「砂嚢の計」という。
章邯は桃林へ逃げたが追撃を受けて自決した。(あの将軍があっさりと)
次に韓信は下秦の高奴を攻め董翳はたまらず降伏した。
続いて中秦の櫟陽を攻め司馬欣も降伏した。
その速さに項羽は援軍を送る間もなかった。
第2話&代3話「壊れた友情」は割愛します。

項羽は義帝を擁立して秦を倒した後その義帝を殺害した。
劉邦は義帝の弔い合戦であるという大義名分を立てて東進を始めた。
漢中を発進した時の漢軍は五万余であったが三秦を平定したことで兵力は増加。
東進に加わったのは降伏した中秦の司馬欣、そして下秦の董翳である。(まじか)
同じく、申陽、魏豹、陳余、その兵力は五十六万にもふくれあがっていた。
しかし韓信はこの勝手気ままな諸侯らの行動が気に入らなかった。兵というものは手足の如く動くものでなくてはならぬ、私なら五万の兵があればこの軍勢を討ち取れる、という心配をしていたのだ。
一方、斉では范増が劉邦の彭城に進軍していると聞き引き返すべきと項羽に進言した。
が、項羽は劉邦を舐め切っており斉鎮圧が先だとして黥布に彭城を守れと命令を送った。
が、黥布は項羽のやり方に疑問があり病気と称して出陣しなかった。
漢軍は楚に入った。
諸侯はそれぞれ思い思いの場所に陣を張った。
夜になり彭城からその様を見ると限りなくかがり火が広がり番兵たちの恐怖を呼んだ。殺されるのを待つだけに思えた番兵たちはこぞって逃げ出したのである。
翌朝漢軍の攻撃が始まった。
僅かの襄平で防げる数ではない。
彭城はあっという間に落城した。
漢軍は城内になだれ込む。そこには項羽が秦より持ち帰った財宝が山とあり奪い合いとなる。
さらに秦よりつれてきた後宮の美女三千人もいて兵士たちはその女たちにも襲い掛かる。
劉邦はすでに天下を取った気持ちとなって連日勝利の祝宴を開いた。
酒好き女好きの劉邦には極楽の世界である。
斉ではこの報せが入る。
彭城落城。黥布は一兵も援軍を出さなかったと知り項羽は彭城奪回に向かうと決意する。
范増は「これでやっと劉邦が油断できぬ男とわかったはず。今度こそ仕留めてくだされ」
項羽も今回は「仕留めずにおくものか」と怒った。
范増は「漢軍の主力は彭城の東に張っており、西が手薄、西から攻めなされ」とした。
項羽は了解し疾風の速さで駆けた。
范増の言う通り彭城の西側は手薄だった。
項羽はまずそこを蹴散らし彭城へ入る。劉邦を必ず討ち取る決意だった。
女と寝ていた劉邦は「楚軍到来」の声に慌てて服を着こみ東陣へと逃げる。
が、項羽は兵を集結させ東の陣をしらみつぶしに撃破していく。
項羽の強さは鬼神の如くであり昼頃には漢軍は雪崩を打って敗走し始めた。
だが楚軍は追撃を緩めず河を渡ろうとした漢軍十余万はそこで殺され、山に逃げた漢軍も楚軍によって睢水に追い詰められた。一度に十万人が飛び込んだため流れが一時止まってしまう。ここで漢軍は矢の雨を浴び無数の死者を出した。
劉邦は馬車に乗って必死に逃げた。御者は夏侯嬰。
劉邦は沛にいる家族を連れて逃げたいと言い出す。
夏侯嬰は了解し彭城より西北七十キロにある沛に寄るが誰もいない。近所の者から家族は楚軍に捕らえられたと聞くが子供の姿はなかったとも聞いて子供たちを探すことにした。
すると二人の子供が隠れているのを夏侯嬰が見つけ出す。
劉邦の子供だった。
劉邦は子供らを馬車に乗せて走り出したがそこへ追手が現れたのである。
夏侯嬰は鞭をふるって馬を走らせた。
だが劉邦は項羽が容赦しない男だと思うと恐怖に震え子どもたちに「馬車から降りよ」と命じる。
夏侯嬰が「どういうおつもりですか」と問うと「馬車を軽くするのだ」と答える。
夏侯嬰は「王子・王女様を置いていくなどとんでもない」と走らせる。が、劉邦は不安で不安で仕方なく「やはりお前たち降りろ」と言って娘そして息子を次々と馬車から放り出してしまった。
(うぎゃあ、こんなことってある????)
夏侯嬰は驚き馬を止めた(この人だけが頼りよ。夏侯家なんだよねえ)
夏侯嬰は「天下人になりたいなら仁徳で治めるもの。天下を望むなら慈愛の心を持ちなされ。自分の子を捨てるような王に万民がついてくると思いますか」と説いた。
正しい、どころではない。
「私がお側についている限りそのようなことはさせませぬぞ」と言って夏侯嬰は馬車を折りて二人の子に駆け寄った。
「さあ馬車に乗ってください」というと「父上が嫌がります」と答えるので「あれは漢王様が楚兵に追われ少し取り乱しただけでございます」
(夏侯嬰の優しさに泣きそう)
こうして夏侯嬰によって落とされた二人の王子王女は劉邦と共に無事逃げのびたのである。
(とはいえトラウマになるわ)
だがこの合戦で司馬欣と董翳は捕らえられて打ち首となり西魏王の魏豹は自国へ戻って劉邦に背を向けた。
趙も劉邦に背を向けた。
その頃、韓信は敗走兵を集結させていた。
韓信の心配は的中したが指揮できぬ軍勢では韓信も何もできなかったのである。
劉邦は項羽とたたかって七十二敗し、最後の一戦でのみ勝利した。
それゆえ人々は劉邦を百敗将軍とあだ名した。
それにしても睢水の敗戦は劉邦のもっとも不様な敗戦であった。