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『史記』横山光輝 ⑫ 再読 第3話「四面楚歌」

「四面楚歌」横山項羽好きになれないけどさすがにここに至ると心が動くよね。

 

ネタバレします。

 

 

項羽に滎陽、成皋を取られた劉邦だが関中で軍を立て直し再び東進を開始した。

そして滎陽、成皋の奪回に成功した。

 

その頃、項羽は彭越を追っていた。彭越は劉邦から楚軍の兵糧庫や輸送部隊を襲うように命じられていた元・野盗の男だった。

項羽は兵糧確保のためにも彭越を討伐しておく必要があった。ところが滎陽、成皋が劉邦に奪回されたと聞き急ぎ広武に進軍してきたのである。

 

その頃、北伐の韓信は斉王を討ち斉の首都に入っていた。

そこに漢王から楚軍を討てとの命令が入る。

韓信はすぐに出陣します、と答えたのだがそこにまたも蒯通が口を挟む。「でも上将軍、斉王になってから救援に向かいなされ。上将軍の功績があるなら王になってもおかしくない。漢王にそう申し上げればお認めになるでしょう」と言う。が、韓信が「しかし人の弱みにつけこんでいるようでのう」と返すと「では仮の王ということで表文を送ってみなされ」とした。

 

韓信からの表文を受け取った劉邦はそれを読むや憤慨した。側近は劉邦をとりなしながら足を踏んだ。

「アム」と痛がる劉邦に「韓信なくして項羽とは戦えませぬぞ」「それより韓信に恩義を感じさせておくべきです」と言い寄った。

劉邦は「この愚か者」と激怒。

「わしがそれほどケチな王と思っていたのか仮の王とは何だ。なんで斉王にしてくれと申してこぬ」

そして張良に向き直り「そなた、韓信に斉王の印を届けてくれ」と命じた。

張良はただちに斉王の印を持って韓信の元へ赴いた。

一国一城の主になることが夢であった韓信の喜びようは大変なものであった。

 

これを聞いた項羽韓信と手を組む算段に出る。

豪奢な贈り物を持って即位のお祝いとして友好を結ばんと使者を向かわせたのである。

だが韓信は楚にいた頃項羽に無視され続けていたこと、そして漢王は上将軍としてくれ三軍を任され今は斉王にしてくれたことから漢王を信頼する、贈り物は持ち帰ってくだされとこの説得は失敗に終わった。

 

しかしこれを聞いた蒯通は韓信に進言する。

「わたくしがあなた様に王になるのを勧めたのは天下を伺う足掛かりになると思ったからです」

斉は豊かな国で要害の地でもある。

今、漢王、項王の運命は韓信にかかっていると蒯通は説いた。

「私は漢王のために働いている」と答える韓信蒯通は苦言をさした。

「まず項羽の天下を三分して統治するという話に乗って漢楚の戦いをうまくまとめるのです。あなたは漢王を信じすぎておられるがひとつ疑いが生じるとどうなるかわからない。あなたは戦の天才です。しかし平和になれば〝狡兎死して良狗煮られる”あなたは必要なくなるのです」

蒯通は言葉を尽くして韓信を説得した。「斉王様。真の智とは決断することなのです」

韓信は「わかっている」とは答えたものの「だが王にまでしてくださった漢王を裏切れぬ」と最後に言った。

蒯通はあきらめた。だが狂人のふりをしてどこかへ去ってしまった。謀叛を勧めたことが劉邦の耳に入った時の報復を恐れたのである。

 

滎陽城では漢王がなかなか関心が来ないことに焦れていた。

戦況は一進一退だった。

張良は漢王に「彭越が糧道を断っているため楚軍の兵糧は底を突いたそうでございます。天下を二分して西を漢領、東を楚領とすることで和睦を申し出てはいかがです。今なら項王は応じるでしょう。そうなれば捕らえられているご両親と奥方様も取り戻せます」これに漢王は賛成した。

直ちに使者が出向き和睦の話はまとまった。父母や妻は無事帰された。

項羽は早々に彭城へ引き揚げた。

 

劉邦が「さあ戦は終わった。帰国しよう」というと張良は「これからが決戦です。項王が油断している間に追撃するのです」と答えた。

和睦直後の漢王は驚くが張良は楚軍は兵力を消耗し食糧もない。この機を逃しては討ちとれませぬ」とした。陳平もこれに賛同する。

「両雄並び立たずと申します」

張良は最初からそう考えて和睦を勧めたのである。

劉邦もやむなく韓信、彭越にも出兵をするように伝えた。

こうして雌雄を決すべく項王追撃を開始したのだ。

 

ところが韓信も彭越も現れない。

仕方なく漢軍だけが楚軍を追い反撃を受けてしまったのだ。漢軍は大敗して逃げ帰った。

劉邦は「なぜ韓信、彭越は来ないのだ」と愚痴り張良はこれに答えた。

「今、楚の旗色が悪く漢王の勝利が見えているからこそ韓信、彭越は不安なのです。彭越の活躍に漢王様はそれなりの地位を与えておりません。それゆえ漢王様が天下を取れば自分たちはどうなるだろうと不安なのです」

「ではどうすればいいのだ」

「漢王様が天下を取れば陳以東海岸にいたるまでの地を韓信に与え、睢陽以北、穀城までの地域を彭越に与えるとするのです。今度は大義名分ではなく自分の利につながる戦いです。ふたりは必ず動きます」

劉邦はそれだけでなく諸将にも「項羽を討ち取った者には楚の領土を割いて万戸侯とし千金を与える」とした。

この言葉に漢陣営は恩賞の大きさに騒がしくなり韓信、彭越は動き出し、そればかりか楚の大司馬の周殷までが反旗をひるがえして彭城を目指したのである。

漢軍の総勢は百万となった。

 

対し項羽の軍は三十万。しかし項羽はかつて三万の兵で五十六万の漢軍を蹴散らしたことを思い出させ戦は数ではないと言い渡した。しかも劉邦の本陣は三十万で互角であり劉邦の首さえとれば漢軍は大混乱になる。目指すは劉邦の本陣だけである、とした。

 

項羽は漢と決戦すべく彭城を出た。

周りに見える漢軍など見向きもせずひたすら劉邦の本陣を目指したのである。

この中に虞美人もいた。項羽はこの女性を愛しいつも側から離さなかった。項羽劉邦目指して突撃した。

だが睢水の合戦の時と違い今回は韓信が万全の布陣をしていた。

さらに項羽の首をとれば万戸侯と千金が約束されている。諸将の目の色も違っていた。

 

漢軍は次から次へと新手の兵を繰り出し楚軍を攻め立てた。

さすがの楚軍も旗色が悪くなっていく。大きな被害が出始めていた。

ここに報告がなされた。「彭城が落とされたそうです」

項羽はやむなく山に囲まれた垓下に逃げ込んだのである。

ところがどういうわけか愛馬の烏騅がここで足をつっぱり動かなくなった。

項羽は仕方なくここに陣を築かせた。

 

項羽の軍は五万になっていた。しかも兵糧も長くはもたない。

項羽はここを脱出し軍を立て直そう、と考えたが四方の山には漢軍の赤い旗が翻っていた。

それから連日漢軍の猛攻が始まった。

項羽は強かった。

一度に八人の将を相手にして倒し一日で六十余人の将を相手にしたこともあった。

これを見て楚軍は奮い立った。項王に続けと暴れまわったのである。

このため漢軍は連日大きな被害を出した。

 

ここで韓信はわが軍の被害を鑑み楚軍を兵糧攻めにしようと進言した。

さらに張良が「楚の歌を歌って故郷を思い出させ戦意を削ぐ」という案を出す。

兵士らに楚の歌を習わせ歌わせることにした。

 

漢軍は垓下に通じる道を封鎖し兵糧運送を断った。楚の兵士たちは飢え始めた。

夕暮れ「これからどうなるのだ」と不安になった楚の兵たちに笙の音とともに歌声が聞こえてきた。

それは楚の歌であった。

これは楚の人間が歌っているのではないかと兵士たちはさざめいた。

「漢はすでに楚を平定し降伏した楚兵に歌わせているのだ」

「それを知らせるために聞かせているのだ」

これから冬だ。食料も無しにどうする、という不安と家族の面倒は誰が見るのだ、という苛立ちが兵士たちの間に膨れ上がった。

降伏するという声と項王様になにか考えがあるはずだという声が錯綜した。

その夜、楚兵は続々と楚陣を離れだした。叔父の項伯も項羽を見捨てた。

項羽の日ごろの横柄さが不愉快でもあった。「鴻門の会」で劉邦と親戚になる約束もしたため身は安全だったのだ。

将軍たちも雑兵に姿を変えて陣を離れた。陳平の「離間の策」で項羽との仲は離れていた。

漢軍は武器を捨てた楚兵は黙って通した。四面楚歌は絶大な効果を発揮したのである。

 

翌朝、項羽の陣にとどまった兵は八百余名だった。

これではとても戦えない。

項羽はここを突破し江東に逃げればそこは自分が蜂起した場所。軍勢を整えられる、と考えた。

虞美人は置いていこうとしたが、「男の姿になってお供します」というのを聞いて未練が生まれた。

ここで項羽は自分の気持ちを歌ったのだ。

 

力山を抜き 気世を蓋ふ 

  時利あらずして 騅逝かず
  騅、逝かざるを いかんすべき

虞や虞や なんじをいかんせん

 

これに虞美人も歌を歌い剣舞を舞った。

そしてその剣で自害して果てたのだ。

 

項羽は八百騎を率い漢陣突破を決行した。

漢軍は怒涛のごとく押し寄せてきた。

項羽を逃そうとした後陣の四百名が全滅。

公は江東を目指し次々と漢陣を突破していった。

四潰山までたどり着いた時には項羽の供は二十八騎となっていた。

「皆の者よく聞け。我らが江東に兵を興してから戦えば必ず勝った。それが今このありさまだ。だがこれは我らが弱くてこうなったのではない。天が我らを見捨てたからだ」

そして項羽は四隊に分かれて三度漢軍に突っ込んだ。

敵を蹴散らして山の東に帰った。

生き残りの強者たちである。あっという間に漢軍二百名を討ち取った。

二度目の突入でも百数十陣を討ち取った。

さらに三度目の突入でも多くの漢兵を討ち取った。

項羽はふたりを失っただけだった。

「天よ、見たか。わしは弱くて負けたのではない」

項羽以下、二十六騎はそのまま烏江へ走った。

だが烏江を渡れば江東というところで項羽の気が変わった。

「わしは八千の子弟をあずかって兵を興した。だが今、それら子弟を皆死なせてしまった。

その父母たちにどう詫びればいいのだ。わしは武将らしく潔く討ち死にし、その名を後世に残したい」

部下たちもまた項羽と運命を共にすると告げた。

項羽は愛馬烏騅から降りた。「自由に暮らせ」

部下も皆馬から降り徒歩で漢軍に乗り込んだのである。

項羽は手傷を負いながらも数百人を討ち取った。

そして自決したのである。

漢将たちは自分の手柄にせんと同士内まではじめその死体に群がった。

項羽の体は手、足、首とばらばらになった。

享年三十歳。

 

劉邦はばらばらになった項羽の遺体を見て「ここに項羽の廟を建てよ」とした。

恩賞は五人に同じように与えた。

 

劉邦が漢王になってから五年、漢楚の戦いは終わった。

 

横山項羽はどうにも好きになれなかったが最期はやはり感動してしまう。

項羽がどうしてそんなに強かったのか、謎でもあるがわずか数年を駆け抜けた戦いの人生に強く惹かれてしまうのは仕方ない。