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『史記』横山光輝 ⑬ 再読 第1話「淮陰侯韓信」第2話「禍、これより始まらん」

ここからは事後処理という感じでちょっと辛い話になりますねえ。

 

 

ネタバレします。

 

前202年、劉邦は諸侯の要請で皇帝の位につき「高祖」と称し洛陽を都とした。

(洛陽!やはり都は洛陽だよねえ)

 

劉邦韓信への論功行賞で悩んでいた。

劉邦の天下取りは韓信の活躍によって成されたと言っても過言ではないが自ら斉王の地位を求めそれが叶うと項羽との戦いに参加しなくなった。

やっと出陣したのは陳以東、海岸に至るまでの楚領を与えると約束したからだ。斉王である上にこの約束まで果たしたら韓信の力は項羽以上に厄介なものとなってしまう。

劉邦張良と陳平に相談した。ふたりは劉邦韓信を怖れているのを察した。

そこで韓信を楚王にするよう進言したのである。

楚は韓信の生まれ故郷に錦を飾ることにもなり項羽の後の国王であるという名誉でもある。

劉邦は納得して実行し韓信は謹んで受け取った。

が、韓信は内心不満だった。

楚よりも斉の方が領土は大きかったからである。

「主を震わしたる者、身危うく 功、天下を蓋う者賞されず」と蒯通が言った言葉を思い出した。

 

が、この時の韓信は下邳に都をおいて楚王となったのである。

そしてかつて自分に食事を与えてくれた老婆、またくぐりをさせた男、途中で面倒を見なくなった亭長を見つけ出して呼び出しそれぞれにふさわしい褒美を与えたのだった。

このままいけばよかっただろう。

だが韓信を尊敬する者も多かったが妬む者も多くいた。

韓信が視察と称して四、五千の兵を引き連れ国を見て回っていること、劉邦が捕らえよと命じた鍾離眜将軍を匿っていることが劉邦に上申されたのである。

これに劉邦は激怒した。

陳平に相談し劉邦は天下を巡幸して諸侯と会見する手段をとった。

陳で韓信と会見することにしてその時捕らえてしまう計略だった。

 

劉邦からの通信が届き韓信は不安を覚えた。

鍾離眜を匿っていることがばれたと感じた。

韓信はやむなく鍾離眜の首を劉邦に渡して許しを求める道を選ぶ。

がその首を劉邦に渡そうとした時韓信は捕らえられてしまうのだ。

 

劉邦韓信の処分をどうすべきか臣下たちに相談し王から侯に格下げして兵を持たせないことに決定した。

自ら韓信が入っている牢をたずねた劉邦は「そなたの目から見てわしはどのくらいの兵を率いる力があるか?」と問う。

韓信は「陛下は十万くらいでしょう」と答えた。

「ならばおまえは?」

「百万を動かせます」

「それならどうしてわたしに捕らえられた?」

「私は兵を使うのが上手い〝兵の将”です。だが陛下は将を使うのが上手い〝将の将”なのです。陛下のこの才能は天性のもので誰もが持っているものではありません」

 

韓信は牢から出され淮陰侯の肩書となった。

 

翌年、劉邦は都を長安へ移した。天下統一後もあちこちで反乱が起こり洛陽では安全と言えなかったからである。

一方、韓信は病気と称して屋敷に閉じこもり反乱平定の出陣には参加しなくなった。

 

その韓信はある日ふらりと劉邦の義弟樊噲のもとに立ち寄った。

樊噲は韓信尊敬者のひとりで大喜びで迎えたのだが韓信はやりきれぬ寂しさに襲われていた。

項羽が天下を三つに分けて統治しようと言ってきたのを断り劉邦に天下を取らせたその報いがこの男と同格の侯とは。

韓信は戦においては天才だったが政治的には臆病だったと言うべきだろう。

 

それ以後韓信はますます家に閉じこもり鬱々として暮らした。

 

ある時陳豨将軍が勅命を受けて別れの挨拶に尊敬する韓信の屋敷を訪れた。

陳豨将軍は鉅鹿の太守に任命されたのだ。

これを聞いた韓信は陳豨将軍に「天下を取る」という謀叛の決意を告白した。

韓信の能力を買っている陳豨は協力すると約束した。

 

鉅鹿に到着した陳豨は打ち合わせ通りに兵を挙げ周囲の城を侵略し始めた。

これを聞いた劉邦は激怒し自ら出陣していった。

 

都が空になった今長安を制圧する、と韓信は計画を部下たちに話していた。

これをひとりの召使が聞いていたのである。

この男の兄は韓信に不正を働いて死刑を宣告されていたため手柄を立てて兄の命を救おうと呂后のもとに走ったのだ。

韓信の謀反を知った呂后は蕭何を呼んだ。

蕭何は「陛下が陳豨軍を討伐した」という嘘の噂を流せば列侯たちはお祝を述べに来ることになる。その時、韓信を捕えるという計画を立てた。

そして自ら韓信に会い「韓信殿もお祝いに参内なされ」と呼びかけたのだ。

蕭何は最初から韓信を推挙していた。それだけに韓信は蕭何を信用していたのだ。

ところが参内するや韓信はあっという間に捕らえられてしまう。

韓信は時鐘堂に引きたてられ柱に縛り付けられ斬り殺された。

 

国士無双とまで言われた韓信の最期であった。

人々は「韓信は蕭何によって出世し蕭何によってその生涯を閉じた」と語り合った。

上手いこと言う。

しかしこの韓信、勇猛なのか臆病なのか、天才なのか愚かなのか。

「股くぐりという屈辱を耐えながら立派な王となった」という物語なのかと思いきや、案外最期も屈辱的に終わる人生だった。

やはり股くぐりというような自分を貶めてしまう行為はしない方がいいのかもしれない。

幾度も自分の人生を変えられる機会がありながら卑屈であった、のではなかろうか。

横山先生のキャラ描写としてはすらりとしたイケメン風を選ばれているが最初「ぱっとしない風貌だった」というのもあってもっと卑屈な風貌だったのかもしれない、と考えてしまう。絵にするのは難しいけど。

蕭何の物語である。

劉邦と同じ沛件の豊の人で役所の文書係という小役人であったがてきぱきと仕事を処理し評判が良かった。

劉邦が沛県から秦打倒で蜂起すると劉邦の補佐役としてずっと行動を共にした。

劉邦が咸陽一番乗りを成し遂げた時人々は秦の宝物殿に殺到した。

だが蕭何はそんな宝物など目もくれずに秦王朝の文書田に足を運んだ、というのが最高に面白い。

「天下の要害の地、人口、各国の戦力などが記された書」に巨万の富にまさる宝だ、と感激しすべて漢の陣営に運び込んだ。

その夜項羽は秦の都咸陽を焼き払ったが文書だけは焼失を免れたのだ。これが漢王朝創建に大きく役立った。

 

漢王となった劉邦韓信を得て東進を開始。この時、蕭何は関中の櫟陽に残り前線への物資補給に全力をあげていた。

漢軍は楚軍との戦いで常に苦戦を強いられた。そんな激戦の間にも劉邦はたびたび蕭何の労をねぎらう使者を櫟陽に送った。

これを蕭何はそのままありがたいと喜んだが側近は「これは劉邦があなたを疑っているのです」と進言した。

これには蕭何も戸惑い進言通り身内を数十人出陣させたのである。

 

漢の五年(前202年)劉邦はついに楚の項羽を倒し皇帝となった。

論功行賞の時皇帝である劉邦は「最高の功労者は蕭何である」として湖北省光化県を封地として与えた。

これに多くの武将が不満を発した。

劉邦は納得させようとして武将たちを犬に蕭何を人間に例えて逆に憤慨させてしまうが鄂君がいかに蕭何の業績が並外れていたか「兵糧の補給を絶え間なく行い且つ滎陽から西に楚軍を決して入れさせなかった」ことで漢軍が安心して戦えたのだと称賛した。

劉邦は自分の下手な例えを鄂君が上手く代弁してくれたのを感謝し爵位を一級あげて安平侯とした。

 

張良劉邦から斉の三万戸を与えるとされたがこれを辞退し「陛下がわたくしの策を取り上げていただきそれが成功したのは時の成り行きでございます」と答え留の地だけで充分とした。

劉邦張良の無欲さに感心する。

張良劉邦に一緒に宮殿を歩いて欲しいと言い出す。

するとあちこちで諸将が集まり反乱を相談している様子が見えた。

劉邦張良に相談すると張良は「陛下がもっとも毛嫌いしている人物は誰ですか」と問い返す。

劉邦が「雍歯だ」と答えると張良は「ではその人物にまず封地を与えれば皆も落ち着くでしょう」とした。

宴会を開き皆の前で劉邦が最も嫌いな人物雍歯に封地を与えると居並ぶ諸将は驚き「陛下が一番嫌いな人物にあれほどの恩賞を与えられるのなら自分には必ずそれ以上の恩賞がある」と安堵したのである。

これで険悪になりかけた君臣たちとの間は一気に和らいだ。

また張良は「洛陽は堅固だが土地は痩せ四方から攻められると孤立してしまいますが長安は要害の地であり王城の地と言えます」と進言して遷都を決意させた。

 

蕭何は劉邦が再び戦に追われている間に未央宮を建て諸侯に威厳を示した。

さらに韓信の謀反を蕭何が未然に防いだことに対して劉邦は感謝し蕭何を宰相として五千戸の領地を加増しさらに五百人の護衛兵をつけたのである。

蕭何の屋敷には次々と祝いを述べる客が訪れた。だがひとり、もと秦の東陵侯で今は庶民となった召平という人物だけは悔やみを述べた。

「蕭何殿、これよりあなたの身に禍が始まりますぞ」

護衛兵をつけたのはあなたを守るためではなくあなたを監視するためです。ここは加増を辞退し全財産を軍費として献納なさるべきでしょう、というのである。

蕭何はこれに感謝し実行した。劉邦は喜んだ。

 

さらに今度は黥布が反乱を起こしまたも劉邦は出陣したが何度も蕭何の近況を尋ねてきたのだ。

これをしった蕭何の側近は「陛下は貴女が名宰相なのを怖れているのです」と進言した。

蕭何は善政を行い人望を集めていることが陛下にとって脅威なのです、、と。

そんなことを言われてもどうすればいいか真面目な蕭何はわからなかった。

側近は「悪宰相になって評判を落とすしかありません」とした。

「田畑を安く買いたたいて支払いを渋ればあなたの人望は落ちて陛下は安心されましょう」

やむなく蕭何はそのとおりにしさらに劉邦に陛下の御料地を農地にしてはと進言して不興を買い投獄された。

しかしここで君臣からの釈明を受け劉邦はやむなく蕭何を許したのである。

 

それから間もなく劉邦は病に倒れた。黥布討伐の時に当たった流れ矢が原因だった。

その二年後、蕭何も劉邦の後を追うようにこの世を去った。

 

農民から皇帝にまでのし上がった劉邦だが晩年は独裁者の多くが陥る猜疑心の虜となり人に会うのも嫌がったという。

蕭何は上手く生き抜き名宰相の音を残した。

 

善政を行って人望を集めると嫉妬されてしまうという、人間関係の難しさよ。

劉邦の最期は以前のおおらかさがまったくなくなってしまう。寂しいことだ。