
ネタバレします。

大正4年3月
この頃、裕仁皇太子は学友5人と共に各地の天皇陵、火葬塚などを行啓している。
足立タカは裕仁殿下の10年間の養育日誌を記していた。それは御側日誌とは別の記録だった。
木戸孝正はこれを受け取り読んだ。
なかに「こころえ」の一冊がありそこにはタカの殿下への深い愛情がこめられていた。
「私の次に殿下のお世話をする方に」と書いてあるから突如タカ自身が掛から外れるような場合を想定して記したのだろうか。
そこには殿下が草花が好きなこととイソップ物語が好きで自作のイソップ物語を話される時があってその時は心から褒めてあげて欲しいと書かれていた。
木戸はそれを読んで涙した。
足立タカは32歳。養育掛を終えたタカは海軍少将・鈴木貫太郎のもとへ嫁ぐ。
フランス語教育掛の山本信次郎は海軍軍人でもあった。
裕仁殿下の乗馬授業中断を求めた山本は旅順攻囲戦の地図を広げて見せ「敵軍要塞を陥落させるにはどうすればいいか」と問う。我が軍には28サンチ榴弾砲18門、歩兵五万。
学友たちが答えた後、裕仁殿下は乃木が行った「歩兵の突撃と28サンチ砲砲撃を一挙に同時に行う。多大なる犠牲を払っても」と答えた。
山本は「その通りでございます」と申し上げる。
裕仁はそうして御所の周りを一回りするのだがかつて学んだ乃木を思い起こし精神の高揚を感じた。
その昂りが馬に通じ棹立ちとなってしまう。
「皇国の興廃この一戦にあり」
これを見た教師が馬に対して怒り裕仁は「馬に罪はありません。きっと私の心を読み取ってのことでしょう」ととりなした。
「感情を表にだしてはいけないんだ。誰かを傷つけてしまうから」
と彼は考えるようになる。
そして考えた。
「タカ、ぼくが天皇になる頃には世界はどうなっているのだろう。平和なのか、そうでもないのか。そうでもなかったら多くの国民が国の為、天皇の為に死んでいく。ならば人に命を捧げられても恥じないもの煮なろう。恥じない天皇に」
そして以前自分で作った「竹山」のハンコを川の流れに放り投げた。
「永遠にさらばだ。朕は国家なり」
この頃裕仁は近眼が進行し眼鏡を作る。
浜尾新は「天皇がメガネなどもってのほか」と反対したが眼鏡は作られた。(当たり前だ)
大正5年11月3日。
裕仁はタカを招くことを望むがかなわず、タカは群衆の中から馬車で行く殿下を見送った。
この後の頁で以前に「本作には街の華やかな場面は登場しない」と書いたのに「そういう場面」があった。
それがこれだ。

綺麗どころとの酒席の場面、ご堪能されましたでしょうか。
この人物は山縣有朋。
長州出身である彼は東宮御学問所の総裁が東郷平八郎であるのを嫌っていた。
薩摩のやつらが皇室を抱き込もうとしていると見た。
そこで彼はどでかい「起死回生」を目論んでいた。
それは「立太子の礼」の次に来る「ご成婚」で殿下の后を我ら長州が貰うというものであった。
大正6年(1917年)
ひとりの少女が毎日6時半に学習院女学部に登校していた。車引きがそれを不思議に思って問うても「秘密」と言う。
彼女はひとり早く登校して便所掃除をしていたのである。
彼女は久邇宮家の第一王女で14歳の良子(ながこ)であった。
むろんその行為を止められたのだが「私が好きでやってることですから」と言ってきかなかった。
ある日、節子皇后は直々に学習院女学部を訪問した。
慌て騒ぐ女学生の中でひとりまっすぐ前を向いたまま習字をする女生徒がいた。良子である。
皇后は彼女ともうふたりを応接室に呼んだのである。
もうふたりは梨本宮方子と一条朝子であった。
皇后は三人の手を見た。ふたりはしなやかで綺麗な手をしているのに良子の手は荒れて真っ赤であった。
皇后はその理由を聞いて微笑みながら「明日からは便所掃除禁止よ。そんなささくれた手で赤子を抱いたら一大事」と言うのであった。
その日から貞明皇后は久邇宮良子について調べ上げやはりこの子だと決意する。
皇后は杉浦重剛を呼び久邇宮良子が妃になるための教育を頼んだのである。
それは裕仁の婚礼を政治に使われたくないという思いからだった。
久邇宮良子女王が殿下のお妃に内定したとの報は古稀庵にいた山縣有朋に届いた。
長州藩の山縣は皇太子のお妃が薩摩のつながりであることに立腹した。
(はああ、そういうことなのか)
長州藩の血と涙があって今の日本国がある。薩摩に縁の深い久邇宮から皇后が誕生すればまた薩摩がのさばり出す。
なにがなんでもこの内定は阻止だと山縣有朋は考えた。
東宮御学問所の講話の後、杉浦重剛は殿下に「野口ゆかとの会見」をお願いした。
東宮御所内の庭(だと思しき)で裕仁は野口ゆか氏を待っていた。
しかし杉浦氏、というか皇后がほんとうに会わせたいと計画した人物は他ならぬ良子であったのだ。
野口ゆかは以前裕仁が通っていた華族女学校の付属幼稚園に勤めていたのである。
そして久邇宮良子にもそこで何度か会っていたのだった。
良子は御所の庭に咲くひなげしを見て喜んだ。
「これは雑草」と良子が言うのを裕仁は「いえ、雑草と言う草はないのです。どんな草にも名前があります。たとえば・・・」と教えていくのだった。