ガエル記

散策

『昭和天皇物語』能條 純一 その5

ローマの休日』のような、かな??

皇子様の大冒険。

 


ネタバレします。

 

 

原敬総理の後押しで裕仁皇太子はついに欧州へ旅立つ。

お召し艦「香取」に乗って。

 

しかしお供は年配者ばかりで・・・気の毒と言うか、そういうものと思っておられるものか、せめて同年配はいなかったのか。

そして初めての洋行話につきもののステーキをどう食べるか、スープ音立てるな問題が。

だが、周囲のおじさま方が次々と船酔いで撃沈していく中で皇太子は船酔いしないという。

そして漢那艦長に「沖縄にはイラブウナギがいるのだろう?」という質問をして香取は沖縄中城に寄港する。

そして次は香港へ。

朝鮮の(この言葉を打つために何度も「貂蝉」と打ってしまう三国志民)不逞分子が香港に流れ畏れ多くも殿下のお命を狙っているという噂が出回っていた。

そこで「おとり替え玉作戦」が決行される。

よく似てると思われる小松氏を皇太子に仕立て上げ本物の裕仁は別の車でヴィクトリアピークまで走り抜けた。

 

この頃、山縣有朋は嫌な夢を見て原敬に何度も電話をかけていた。

 

「香取」は3月18日午前6時半「英領マラッカ海峡植民地」首都、シンガポールに到着。

明くる週3月28日、セイロン島コロンボに外遊中初めて公式に上陸。キャンディ王国へ。この島は大変安全とのことで皇太子は旅の疲れをいやす。

 

「香取」進行中に皇太子は食事や女性に対しての立ち振る舞いを練習する。

その時、艦のボイラー菅が破裂し三名が死亡。弔銃が発せられた。

 

大将10年4月15日、お召し艦「香取」はイギリス領エジプト、ポートサイドに入港。特別列車でカイロへ。

砂嵐が酷くピラミッドは消えかかっていた。

 

カイロに3泊の後地中海を疾走し4月24日マルタ島に到着。

そこには先の大戦で殉難した駆逐艦「榊」の上原艦長以下59名、他71名が埋葬されていた。

4月30日、「香取」は欧州の南西に位置するイベリア半島イギリス領ジブラルタルに到着した。

皇太子裕仁の礼儀作法特訓はますます強化されていく。

ここで英国大使館で勤務していた一等書記官の吉田茂登場。

女性に対する作法を指導した。

 

5月9日、イギリス、ポーツマスに到着。

裕仁20歳。

 

吉田茂は義父に「裕仁親王のロンドンでの人気は〝大人気”殿下の天真爛漫さがロンドン市民に好感を抱かせたと存じます」と書き送っている(ようだ)

「5月9日ビクトリア駅に到着し国王ジョージ5世直々のお出迎えでございます。

国王と共に肩を並べての英国近衛兵のご閲兵。誰が想像できたでしょうか」

この義父というの宮内大臣牧野伸顕である。吉田茂は牧野大臣の娘と結婚していた。

 

日本、日光・田母沢御用邸では松方正義牧野伸顕が皇后に謁見していた。

皇太子の摂政を願い出ていた。

原敬は別室で謎の言葉をつぶやき続ける大正天皇を見て皇后にひれ伏した。

「皇太子裕仁親王を是が非でも摂政の宮に」

 

ロンドンでは裕仁大英博物館でミイラを見て自由を楽しんでいた。

そして吉田茂を通じて国王ジョージ5世が裕仁に非公式にふたりきりで話がしたいと部屋を訪ねてきたのである。

国王は告げた。

先の大戦で我が国は多大な傷を負ってしまった。できるなら殿下には戦前に華やかな我が国に戻った姿を見ていただきたかった。

しかしそうではない。大戦の傷跡が残る今こそ殿下が欧州を訪問する意義があると。大英帝国立憲君主制は必ずしも安定しているわけではないのです。民は常に動揺しその度に変革を必要とします。殿下、逆境の時を念頭に置いて日々を過ごしてください」

皇太子裕仁はジョージ5世の父親のような優しさに心打たれる。「英国王室はなんの隔たりもなくまるで普通の家庭のようだ」

これに吉田茂は「ご無礼を承知で言います。殿下が我が日本国の天皇陛下に即位されましたら皇室の改革をなさいませ」

「普通の家庭のように・・・」

5月16日、英国ケンリー飛行場で裕仁ブリストル式戦闘機の宙返り飛行を見る。

エドワード皇太子に勧められて吉田茂と三浦勤之助氏が同乗するが無論裕仁は止められてしまう。

「日本にもあのような優秀な操縦士がいたら頼もしいな」という裕仁の言葉に珍田捨己供奉長は「近い将来日本海軍にパイロット教師団を派遣すること」をエドワード皇太子に取り付けたのである。

裕仁は珍田のこの申し入れを「よかったのか」と不安がったが珍田は「これこそ国と国のつき合いでございます」と言い切った。

 

お召し列車スコットランドへ向かう。エジンバラに到着する前日、裕仁ケンブリッジ大学へ立ち寄りジャイルズ副学長より名誉法学博士の学位を授与された。

エジンバラ古城、ブレア城を見る。

ブレア城では第8代ブレア城主アソール公爵から「何の予定もご用意しておりません。すべて殿下のお気の召すままにお過ごしください」と告げられる。

そして公爵夫人手作りのマフィンをいただき皆で釣りへ向かう。

キルト姿の公爵に従って裕仁は大物を釣り上げた。

 

夜になると公爵夫人のピアノによる「邦楽」の演奏(なんだったんだろう)

そして大勢の客が集まると公爵は「殿下!我が城の晩餐会はこれからですぞ」と声をあげた。

「さあ殿下も輪になって一緒に踊りましょう」

裕仁は公爵夫人と腕を組んで踊った。

「日本の華族や富豪がアソール公のような簡易生活をして公共のために全力を預ければ日本には過激思想など起こらないと思う」

宴の最後はスコットランド民謡「オールド・ラング・サイン」(蛍の光の原曲)を皆で歌って幕を閉じた。

 

日本では原敬総理らが「今頃、裕仁親王はフランス、ル・アーブル港へ上陸ですね」と語り合っていた。

殿下の欧州外遊もあと2か月余り。7月末には帰路につく。

それまでに政局を整えておかねばならない。

原総理は鉄道建設を推し進めていたがそれに反対する者も多かった。

立憲政友会の都合のいいように鉄道を敷く」と皮肉を言われていた。

 

フランスパリでは裕仁エッフェル塔のてっぺんからの景色を楽しんでいた。

お土産を買い、地下鉄に乗り、カタツムリを食べた(と思われる)

 

6月10日、ベルギー到着。

アントワープ港見学。先代国王レオポルド2世の陵参拝。コンゴ博物館見学。

そして第一次世界大戦の激戦地イーペル戦場跡へ。

ジョージ5世から伝えられた「化学兵器が使われ数十万もの人々が戦死したとわれる戦場跡、これが戦争の結末なのだと。

 

皇太子裕仁の有意義な海外旅行を楽しんだパートでした。

しかし日本では不穏な空気が爆発しようとしている。

次回はどうなる?